山歩きが趣味の友人に誘われ、私は休日に近場の低山に登ることにした。標高はそれほど高くないが、登山道は薄暗い木々に覆われており、静けさが際立つ山だった。
登山道の途中には小さな展望台があり、そこからは街並みを一望できる。友人と軽い昼食をとりながら、しばらく風景を眺めていると、ふと友人がこう言った。
「この山、やまびこが出るって噂があるんだよな」
「やまびこ? ただの反響だろ?」
「いや、そうじゃなくて、人を呼ぶやまびこ、らしい」
そう言うと、友人は半分笑いながら、自分でも信じていないような口調で続けた。
「この山で呼び声を聞いたら、絶対に返事しちゃいけないってさ」
私は笑って流した。そんな話、どこにでもある。迷信だろうと深く考えず、登山を続けた。
午後になると天気が怪しくなり、薄暗い雲が山を覆い始めた。少し急いで下山しようと、友人と二人で歩を速める。登山道は誰もいなく、静まり返っていた。風が木々を揺らし、枝がこすれる音だけが響く中で、突然、それが聞こえた。
「おーい……」
山に反響するような声だった。声の方向を振り向くと、友人も聞いていたらしく、眉をひそめた。
「今の、誰かの声か?」
「かもな。登山客が迷子にでもなったのかも」
そう言って私は声の方向に耳を澄ました。すると、もう一度、同じ声が聞こえた。
「おーい……」
どこか妙だった。反響するはずの声に、山の空気に馴染まない不自然さがあった。まるで声そのものが私たちのすぐ近くから発されているような感じだ。
「返事するな」
突然、友人が低い声でそう言った。
「は?」
「返事しちゃダメだ。絶対に」
友人の真剣な表情を見て、私は言葉を飲み込んだ。そのまま無言で歩き続けると、声はまた聞こえた。
「おーい……」
さっきと同じトーン、同じ間合い。だが、確かに近づいてきている。
そのとき、私は思い出した。やまびこはただの反響ではない、そういう噂を聞いたことがある。誰かが呼ぶ声に返事をすると、その声が形を持ち、姿を現すのだと。
そして、それは決して人間ではない。
足を速める私たちを追いかけるように、声はさらに近くなった。
「おーい……」
振り向きたくなる衝動を必死で抑えた。友人は無言で前を見据え、ひたすら歩き続けている。やがて道が開け、林を抜けると駐車場が見えた。その瞬間、声は途絶えた。
振り返ると、登山道は静まり返り、何もいない。ただ、木々の奥に何かが立っている気配だけがあった。それは、確かに人の形をしているようだったが、顔や輪郭がどうしても認識できない。
車に乗り込んで帰路についたあと、友人がぽつりと言った。
「聞いたことがあるんだ。あの声に返事すると、やまびこはどこまでもついてくるって。家に帰ってもな」
それから数日後、私の耳に奇妙なことが届いた。友人が家で誰かに呼ばれた気がして振り返ったが、誰もいなかったという。それが一度だけではなく、夜になると、何度も同じ声が聞こえるらしい。
「おーい……」
――あの日、やまびこに返事をしなかったのに、どうして。
友人のその言葉が、今でも頭に残っている。そして夜、家で妙な静けさを感じるたび、あの声が聞こえてくるのではないかと、耳を塞ぎたくなるのだ。
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