戻る場所

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僕はドライブが好きで、特に夜中に車を走らせるのがたまらなく好きだった。静まり返った山道を、エンジン音だけを頼りに進んでいく感覚は、どこか現実から切り離されたような気分にさせてくれる。

その夜も、気分転換にと思い立って、人気のない山道を走っていた。季節は夏の終わりで、夜風が肌に心地よかった。山道を登るにつれて、周りはどんどん暗くなり、外灯も途切れがちになってきた。遠くに見える街の灯りが、ぼんやりと霞んでいるだけで、深い緑に囲まれた道はまさに漆黒の闇だ。

しばらく走っていると、ふと休憩所の看板が目に入った。そこはドライブ中によく立ち寄る場所で、小さなベンチと自動販売機があるだけの簡素な休憩所だった。夜中にここに立ち寄る人はほとんどいないだろうし、今日は特に誰もいないだろうと思い、車を停めることにした。

エンジンを切ると、辺りは一層静まり返った。車を降りて、ひんやりとした空気を深く吸い込む。深緑に包まれた山の匂いが、鼻をくすぐる。休憩所のベンチに座り、しばらくぼんやりと空を見上げた。星がいくつか瞬いているのが見えたが、それ以外はただの闇だった。

そんな時、不意に足元で小さな音がした。何かが地面を踏む音だった。気のせいかと思ったが、再びその音が聞こえた。僕は目を凝らして周囲を見渡したが、暗くてよく見えない。とはいえ、心なしか、木々の間に何かが動いているような気配があった。

少し不安になり、車に戻ろうかと思った瞬間、木々の間からゆっくりと人影が現れた。暗闇の中から、ふわりと浮かび上がるようにして、一人の男がこちらに向かって歩いてきたのだ。

その男は深緑色のジャケットを着ていて、何かを考え込むように下を向きながら歩いていた。僕は「こんばんは」と声をかけたが、彼は一瞬こちらを見ただけで、すぐにまた目を伏せた。そして、無言のまま自動販売機の前に立ち、何かを買おうとしているようだった。

深夜の山の中で、こんな時間にこんな場所に誰かがいるなんて、普通なら考えられない。しかも、その男の姿がどこか現実離れしているように感じられた。まるで、深緑の木々と一体化しているかのような、不思議な雰囲気だった。

男は自動販売機にお金を入れ、ボタンを押した。カタンと音がして、缶が取り出し口に落ちる音が聞こえた。僕はその音をきっかけに、ようやく動けるようになり、再び声をかけた。

「遅い時間ですね。何か用事ですか?」

だが、男は答えず、ただ缶を取り出し、静かにそれを握りしめていた。僕は彼の様子に不安を覚え、もう一度車に戻ろうと考えたが、その時、男が突然こちらを向いて言った。

「ここは、戻る場所なんだ」

その一言が、まるで山全体に響き渡るかのように感じられた。何を言っているのか理解できなかったが、その言葉には不思議な説得力があり、心に重く響いた。

男はそれ以上何も言わず、再び木々の間に消えていった。深緑のジャケットが闇に溶け込み、まるで初めから存在しなかったかのように、静かに消えた。

僕はしばらくその場に立ち尽くしていたが、ようやく動き出し、車に戻った。エンジンをかけて山道を下りながら、あの男の言葉が頭から離れなかった。

「ここは、戻る場所なんだ」

その意味が何だったのか、今でもわからない。ただ、あの夜の山の休憩所での出来事が、どこか現実とは違う世界に迷い込んだような、そんな感覚を残している。

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