ある冬の夕方、友人のSが突然、こんなことを言い出した。
「お前、疏水って気味悪いと思わないか?」
疏水とは、町を流れる用水路のことで、古くから田畑の灌漑に使われている。
長い年月が経ち、今ではほとんど使われなくなったその水路は、場所によっては鬱蒼とした木々に覆われ、昼間でも薄暗い。
俺は特に気にしたことはなかったが、Sは違った。
彼は、疏水のそばを通るたびに妙な感覚に襲われると言う。
「いるんだよ、あそこには……」
正月明け、Sが疏水のそばで行方不明になった。
警察が捜索し、疏水の水門近くで発見されたと聞かされた。
幸い命に別状はなかったが、見つかったとき、彼はずっと川底を見つめていたそうだ。
俺は病院に見舞いに行った。
Sはベッドの上で、青白い顔をしていた。
「お前、大丈夫か?」
そう声をかけると、彼はぼそりと言った。
「……疏水の中に、何かがいたんだ」
「何を見たんだ?」
Sは震えながら口を開いた。
「……人がいると思ったんだ。疏水の底にさ」
「人?」
「ああ。でも、違った」
Sは目を伏せ、声を絞り出すように続けた。
「顔が……ないんだよ」
「顔がない?」
「ああ。頭だけが疏水に浮かんでて、でも、顔がないんだ。髪もなくて、ただの丸い塊。だけど、そいつが……」
「そいつが、何をした?」
俺が問い詰めると、Sは顔を上げ、真っ直ぐこちらを見た。
「俺を見て、笑ったんだよ」
一瞬、意味がわからなかった。
顔がないのに、どうやって笑うんだ?
その問いに、Sはこう答えた。
「わからない……でも、わかったんだ。そいつは笑ってた」
その日以来、俺も疏水のそばを通ると、視線を感じるようになった。
何もいないはずなのに、水面に目を向けると――見てはいけないものが見えそうになる。
Sの言葉が耳から離れない。
「疏水に何を見たのですか?」
そう聞かれたとき、俺はこう答えるだろう。
**「顔のない何かが、こちらを見て、笑っていた」**と。
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