伊勢の外れにある古い町を歩いていたのは、旅の帰り道のことだった。
観光地から少し離れたその町には、昔ながらの家々が並んでいたが、どこか静かすぎる。
時折吹く風が、軒先に吊るされた風鈴を鳴らす以外、音がしない。
まるで、町全体が眠っているようだった。
ふと目に入ったのは、神社の鳥居だった。
朱色のペンキが剥げかけていて、今では誰も参拝に来ていないのが分かる。
ただ、鳥居の前に一枚の木札が立てられていた。
「この先、入らぬこと」
そんな不思議な警告が書かれていたが、俺は気にせず鳥居をくぐった。
何となく、呼ばれている気がしたからだ。
神社の境内には誰もいなかった。
本殿は古びていて、屋根の一部は崩れていた。
それでも、異様に整った感じがしたのは、何かが定期的にここを訪れているからだろう。
その時――
背後から鈴の音が聞こえた。
振り返ると、鳥居の下に白い着物を着た細身の男が立っていた。
男の顔は影になって見えないが、細長い腕が鈴を握り、静かに鳴らしている。
鳴るはずのない鈴が、やけに澄んだ音を響かせる。
「……参られたのですか」
男の声は、遠くから聞こえるような、不思議な響きがあった。
俺は思わず頷いたが、その瞬間、背筋に寒気が走った。
その男の顔が――どこにもなかったのだ。
目も鼻も口もない、のっぺりとした白い顔。
それでも、こちらを見ているのが分かる。
「――お戻りください」
男はそう言うと、鳥居を背にしてゆっくりと消えていった。
だが、その瞬間、俺の背後から別の声がした。
「あなたが帰るのは、ここじゃない」
振り返ると、神社の本殿の扉が開いていた。
その先に続くのは――伊勢ではないどこか。
俺は、二度と振り返らずに町を離れた。
だが、今でも時折、あの鈴の音が耳に残ることがある。
もし、もう一度あの町に足を踏み入れたなら――
次は帰ってこれない気がするのだ。
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