僕は写真が趣味で、休日にはよくカメラを持って出かける。特に風景写真が好きで、いつか逆さ富士を撮影したいとずっと思っていた。逆さ富士とは、湖面に映る富士山が上下逆さに見える現象のことで、その美しさは言葉にできないほどだと聞いていた。
ある日、ようやくそのチャンスが訪れた。天気予報は快晴、風も穏やかで、逆さ富士が見られる絶好の日だった。早朝に湖畔に到着すると、すでに何人かのカメラマンがスタンバイしていた。僕も三脚を立て、カメラをセットした。
湖面は鏡のように静まり返り、富士山の姿がくっきりと映し出されていた。僕は夢中でシャッターを切り、何枚も写真を撮った。まるで富士山が湖の中に吸い込まれていくかのような錯覚さえ覚えるほどの美しさだった。
撮影を終えて、しばらく湖を眺めていた。そんな時、ふと違和感を覚えた。逆さ富士を映す湖面が、何か奇妙に歪んでいるように見えたのだ。よく見ると、湖の中に映る富士山が、ほんのわずかに揺れているように見えた。
「風が出てきたのか?」と周囲を見渡したが、木々は静まり返り、風の気配はなかった。それでも、湖面に映る逆さ富士は、ゆらゆらと揺れ続けていた。
不思議に思った僕は、もう一度カメラを構え、ファインダーを覗き込んだ。その瞬間、心臓が止まるかと思った。
湖面に映る逆さ富士の中に、人影が見えたのだ。富士山の頂上部分に、ぼんやりとした人影が立っているように見えた。その人影は、湖の中でこちらを見つめているようだった。
「何だ、これは…?」
恐怖に駆られた僕は、ファインダーから目を離し、直接湖面を見た。だが、実際の富士山にはそんな人影はどこにもない。ただ、湖面に映る逆さ富士の中にだけ、その影は存在していた。
その影が、ゆっくりと動き始めた。まるで湖面を歩いているかのように、逆さ富士の中を移動していく。僕はその光景に釘付けになり、動くことができなかった。影は次第に僕の方に近づいてくる。
「これは夢か、何かの錯覚か?」
そう思って何度も目をこすったが、影ははっきりとそこに存在していた。ついに影は湖面のすぐ手前まで来た。そして、その瞬間、湖面が大きく揺れ動き、逆さ富士の姿が崩れ始めた。
まるで湖の底から何かが湧き上がってくるかのように、水面が激しく波立ち始めた。恐怖で体が固まり、逃げ出すこともできず、ただその場に立ち尽くしていた。
突然、水面から白い手が伸びてきた。その手は僕の足首を掴み、強い力で引きずり込もうとした。僕は必死に抵抗しようとしたが、足元が滑り、バランスを崩して湖に落ちそうになった。
「助けて…!」
そう叫んだ瞬間、手の力が弱まり、僕はなんとか体勢を立て直すことができた。振り返ると、水面は再び静まり返り、逆さ富士も元の美しい姿を取り戻していた。あの手も、人影も、跡形もなく消えていた。
僕は震える手でカメラを片付け、足早にその場を後にした。帰り道、何度も振り返ったが、もう何も見えなかった。
それ以来、僕は二度と逆さ富士を撮りに行こうとは思わなくなった。あの日見たものが何だったのか、今でもわからない。ただ、あの逆さ富士の中には、何か得体の知れない存在が潜んでいたのだと思うと、恐怖が再び蘇ってくる。
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