あれは、今から数年前のこと。
冬至の日に、友人たちと山奥の秘湯へ行ったんです。
地元の人ですら滅多に訪れない、知る人ぞ知る温泉でした。
「柚子湯に入って、年の厄を落とそう」と、酒を持ち込んで騒いでいたんですが、夜も更けると一人、湯に浸かりながらぼんやりしていました。
その時、ふと隣に人がいるのに気づいたんです。
見れば、歳の頃は40代くらいの男が、
顔まで湯に浸けて、深く息を吐きながら湯煙の中に座っていました。
「気持ちよさそうですね」
そう声をかけると、男はゆっくりと顔を上げました。
その顔は――驚くほど白かった。
白すぎるほどの肌に、血の気のない唇。
けれど、にっこりと笑ってこう言ったんです。
「気持ちいいよ。生きているうちに、もっと味わっておくべきだったね」
一瞬、意味が分からず、私は「え?」と聞き返しました。
すると、男はもう一度、湯の中に顔を沈めました。
そのまま――
二度と顔を上げなかったんです。
湯の表面には、
じわじわと柚子の香りが漂う湯気が立ち昇り、
それ以外、何も残っていませんでした。
私は慌てて友人たちを呼びましたが、誰も信じませんでした。
「酔って見間違えただけだろ」と笑われましたが、
翌日、その温泉の主からこんな話を聞かされたんです。
「冬至の日に、時々戻ってくるんだよ」
その後も、その温泉には男の着替えが置かれたままになっているそうです。
誰のものか分からない、古びた浴衣が――
それが彼の「服」なのかもしれませんね。
冬至の湯には、確かに気持ちを癒す力があります。
でも、誰が一緒に浸かっているかは、分からないんですよ。
今でも思います――
あの夜、私が見た男は、
本当に気持ちよさそうだったと。
ただ、どこか寂しそうな笑顔が、今でも忘れられません。
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