金曜の夜、居酒屋での飲み会が終わり、俺は終電を逃してしまった。
仕方なく街外れの道を歩きながら、タクシーを拾おうとしたが、どこにも車影はない。
繁華街から離れ、細い路地に入った途端、周囲はしんと静まり返っていた。
「なんか、気味悪いな……」
街灯の明かりがまばらに続く一本道。
アスファルトに靴音が響くたび、自分の足音がやけに耳に残る。
――その時、どこか遠くから誰かの叫び声が聞こえた。
「うわああああッ!」
一瞬、足が止まる。
叫び声は、明らかに人間のものだった。
路地の奥から、女の声がしたように思えた。
助けを求めるような、悲痛な叫び声。
俺は辺りを見回したが、誰もいない。
ただ、声が反響しているのか、方向がよくわからなかった。
「……気のせいか?」
少し不安になりつつも、歩き出そうとしたその時、また聞こえた。
「いやああああッ!」
今度は、より近い。
まさか事件か?
こんな夜遅くに、ここで?
俺は迷ったが、なんとなくその声の方へ足を向けた。
路地を進んでいくと、暗がりの中に公園の入り口が見えた。
薄暗い街灯の下、ベンチが一つ置かれている。
「誰かいるのか……?」
声をかけようとした瞬間――
今度は、別の叫び声が響いた。
「うおおおおおッ!」
男の声だった。
その声には、恐怖とも怒りともつかない、異様な迫力があった。
女の叫び声とは、全く違う響き。
「何なんだ……?」
俺は足を止め、息を潜めた。
公園の奥に視線を向けると――
ベンチの裏に、誰かがいる。
暗闇の中、誰かがしゃがみ込んでいるのが見えた。
二人いる。
一人は、長い髪の女。
もう一人は、うずくまる男。
その男が突然、拳で地面を叩きながら叫んだ。
「うおおおおッ! もう嫌だ、もうやめろッ!」
その声に、女は笑っていた。
何かを囁くように、ゆっくりと男に近づく。
その光景が、どうにも現実味を感じさせなかった。
「……何してるんだ、あれ?」
俺は恐る恐る近づいた。
そして――
女がこちらを向いた瞬間、足が凍りついた。
その女の顔には、目がなかった。
いや、目はある。
ただ、瞼が上下とも縫い付けられているのだ。
「……!」
思わず後ずさる俺に、女が言った。
「叫んでごらん」
その声は、驚くほど穏やかだった。
だが、男は叫び続けていた。
「やめろッ! 俺じゃない、俺じゃないんだ!」
女はゆっくりと、男に手を伸ばした。
その手が、男の顔に触れた瞬間――
男の叫びが、突然、ピタリと止んだ。
静寂が戻り、俺は息をすることも忘れて立ち尽くしていた。
「……誰も、聞いてくれないのよ」
女が、俺に向かって歩いてくる。
瞼を縫い付けられたまま、まっすぐにこちらを見つめているようだった。
「あなたも、聞いてくれる?」
俺は答えられなかった。
その瞬間――
どこからか、今度は子供の声が聞こえた。
「うわああああッ!」
それは、俺自身の叫び声だった。
翌日、ニュースで失踪事件の報道を見た。
名前は出なかったが、あの公園で見た男だろう。
しかし、あの女のことは、どこにも触れられていない。
まるで、最初からいなかったかのように。
夜になると、どこからともなく、誰かの叫び声が聞こえるのだ。
「聞いてくれ!」
「誰か、助けてくれ!」
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