大学時代、俺は夜のランニングを習慣にしていた。
昼間は講義とバイトで忙しく、夜しか時間が取れなかったからだ。
人通りの少ない道を、イヤホンで音楽を聴きながら走るのが心地よかった。
でも、その日は少し違った。
夏の終わりで、昼間はまだ暑いが、夜になると空気がひんやりしてくる時期だ。
その夜、いつものように走り始めたとき――妙な違和感があった。
大学近くの住宅街を抜け、郊外の公園を目指すルートだった。
暗い道を走っていると、ふと気づいた。
後ろの方で、足音がする。
「……気のせいか」
そう思って速度を上げると、足音も速くなる。
ゆっくり走ると、足音も遅くなる。
気になってイヤホンを外した。
タッ……タッ……タッ……
はっきり聞こえる。
俺が走るたびに、誰かが少し遅れてついてきている。
振り返っても、暗い道には誰もいない。
「誰かいるのか?」
声を出してみたが、返事はなかった。
公園までの道のりを進んでいくと、街灯が一つ消え、また一つ消える。
嫌な予感がして足を止めようとした瞬間、頭の中で声が響いた。
「待つな」
それは、耳元で囁くような声だった。
ゾッとして、思わず立ち止まった。
だが――
その瞬間、後ろから何かが近づいてくる音が聞こえた。
「……ヤバい」
咄嗟に、俺は走り出した。
さっきの声は、俺に立ち止まるなと警告していた。
振り返るな、止まるな。
ただ、走れ。
全速力で走った。
だが、後ろの足音もどんどん速くなる。
公園の手前の一本道に差しかかると、足音が突然途切れた。
嫌な静寂が訪れ、俺は思わず立ち止まってしまった。
その瞬間――
背後から、何かが凄まじい勢いで俺にぶつかってきた。
全身が宙に浮き、アスファルトに叩きつけられる。
「……誰だよ!」
叫んだが、誰もいない。
しかし、肩が焼けるように痛い。
肩に触れてみると、服の上から手形のような跡が残っていた。
立ち上がると、また声がした。
「走れ」
俺は全身が震えた。
声は頭の中から響いている。
何かが、まだ近くにいる。
目の前の街灯がまた消えた。
暗闇が、じわじわと俺に迫ってくる。
もう一度、走り出すしかなかった。
だが、足音はもう聞こえない。
代わりに、耳元で声だけが繰り返す。
「待つな」
「止まるな」
「走れ」
どこまでも、どこまでも。
俺は、振り返ることも、立ち止まることも許されないような気がした。
ようやくアパートの前まで戻り、玄関の扉を開けた。
背中の汗は冷え切り、全身が震えていた。
靴を脱いで部屋に入ったとき、ふと気づいた。
俺の靴の後ろに、もう一足の足跡がある。
それは、俺のものより少し大きな足跡だった。
「……ついてきたのか?」
慌てて玄関の扉を閉め、カーテンを引いた。
けれど、その夜も、眠ることはできなかった。
どこか遠くから――
**「走れ」**という声が、ずっと耳にこびりついていた。
それからというもの、俺は夜道を一人で走ることはなくなった。
ただ、あの日のことは、今も忘れられない。
後ろに誰かいる気がして、怖くて振り返れないことがあるだろう?
あの足音は、たぶん……
まだ、俺のすぐ後ろにいるのかもしれない。
もし、君も夜道で足音を聞いたら――
振り返るな、待つな。走れ。
それが、唯一の助かる方法だ。
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