あの日は、少し肌寒い曇り空だった。空気に湿り気があって、プールの水面は鈍い銀色に光っていた。授業が始まる前、更衣室でお前が突然言ったんだ。
「なんか変な匂いしないか?」
俺も嗅いでみたけど、よくわからなかった。塩素の匂いに混じって、生臭いような、湿った鉄っぽい匂いがしてた気がする。でも、気のせいかと思って気にしなかった。
プールサイドに出ると、クラスのほとんどが集まってた。体育教師の高橋が、いつも通りホイッスルを首にぶら下げて立ってたけど、あの日は様子が違った。普段の無駄に元気なテンションじゃなくて、やけに淡々としてたんだよな。
「今日は泳ぎのフォームを軽く確認するだけだ。無理はするなよ」
高橋はそう言って、やけに水面を見てた。まるで何かを探してるみたいに。そのときの不自然さを、俺は今でもはっきり覚えてる。
泳ぎ始めてしばらくしたころだった。お前が突然、プールの向こうを指差して叫んだ。
「なあ、あれ、何か浮かんでないか?」
俺もそっちを見た。最初はただのゴミかと思ったけど、違う。何か、人の形をしてたんだ。水面に仰向けで、すーっと浮かんでいる。それを見た瞬間、心臓が凍りついた。
「誰か、浮いてるぞ!」
お前の声に全員が騒ぎ出した。けど、高橋だけは違った。すぐに飛び込むかと思ったら、じっとその場に立ったまま、微動だにしない。
「先生、助けなくていいんですか!」
クラスの誰かが叫んだけど、高橋は無言だった。そして、低い声でこう言ったんだ。
「触るな」
俺たちは意味がわからなかった。触るなってどういうことだ?でも、高橋の顔を見たら、それ以上何も言えなかった。ただ、恐怖で動けなかったんだ。
しばらくして、プールの管理人が走ってきた。彼が網を使ってその「何か」をすくい上げたとき、俺たちははっきり見た。それは子供だった。いや、子供の形をした何かだ。顔は灰色で、目も口もぐにゃりと崩れたように歪んでた。
「これは……」
管理人が何か言いかけたけど、高橋がすぐに遮った。
「いい。片付けておけ」
片付けておけ?その言葉が耳に焼き付いた。それ以上、誰も何も言えなかった。
その日以降、あのプールは突然閉鎖された。「設備の老朽化によるもの」という説明だったけど、誰も信じてなかったよな。そして、高橋もあの日を最後に学校に来なくなった。
あの浮かんでいた子は何だったのか。そして、高橋が何を知っていたのか。俺たちは未だにわからない。でも、あの日見たあの顔と、あの冷たい水面だけは、今でも夢に出てくる。
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