あの春先の出来事は、どうしても記憶の片隅に引っかかっていますね。花曇りの午後だったと思います。まだ冷たい風が残る季節で、僕はたまたま駅前の商店街を歩いていました。新学期を控えた春休みの時期で、通りには家族連れや学生の姿がちらほらと見受けられました。
その時、道端で立ち尽くす小さな男の子を見つけました。年齢は5歳くらいでしょうか。薄汚れたぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、周りをきょろきょろと見渡していました。明らかに誰かを探している様子でした。
「どうしたの?」と声をかけると、彼は僕を見上げて、小さな声で「お母さんがいないの」と言いました。迷子かなと思い、「一緒に探してあげようか?」と尋ねると、彼はこくりとうなずきました。
手をつなごうとすると、彼は少し戸惑ったようにぬいぐるみをさらに強く抱きしめました。そのぬいぐるみは犬のような形をしていましたが、かなり使い込まれていて、所々がほつれていました。でも、それが彼にとって大切なものであることは一目で分かりました。
彼にお母さんの特徴を聞くと、「黒い服を着てて、背が高い」と答えました。春先に黒い服というのは少し珍しい気もしましたが、急いで周囲を見渡しました。しかし、それらしい人は見当たりません。
その後、彼を連れて駅の交番へ向かうことにしました。歩きながら「お母さんとはどこで離れたの?」と聞くと、彼は不思議な答えをしました。「あの部屋のところ」と。どの部屋のことか聞いても、はっきりとは説明できないようでした。
交番に到着して、警察官に事情を説明しました。その後の手続きは任せて僕はその場を離れましたが、帰り道、どうにも引っかかることがありました。彼が抱えていたぬいぐるみ、どこかで見覚えがあったような気がしたのです。
数日後、もう一度その道を通った時、偶然、その男の子の話を知る商店街の人と出会いました。彼によると、男の子は無事母親と再会したそうです。でも、再会したのは駅前ではなく、駅から少し離れた廃屋の前だったそうです。その話を聞いた時、何とも言えない寒気がしました。男の子が最初に言っていた「あの部屋」が、もしかしてその廃屋だったのかもしれません。
今となっては確認する術もありませんが、あのぬいぐるみと男の子の姿だけが、鮮明に記憶に残っています。そして、彼が本当に母親と再会できたのかどうか、それがずっと心の中で曖昧なままです。
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