昼休みの喧騒が校舎中に響いていた。その日もいつもと変わらない平凡な一日になるはずだったのに、あの出来事が学校全体を一瞬で異様な空気に変えてしまった。
最初にそれを目撃したのは、体育館の窓際にいた友人だったらしい。「誰かが校庭を横切ってる」と、彼は周囲に声をかけた。窓から覗いた僕も、すぐにその異様な存在に気付いた。全身黒ずくめの男が、校庭の端からこちらに向かって歩いてきていた。帽子に長いコート、手袋まで黒で統一されていて、顔はうつむき加減で見えなかった。何かを持っている様子もなく、ただ歩いてくる。
「誰だ、あれ?」というざわめきが教室内に広がると同時に、廊下を歩いていた教師が慌てた様子で職員室へ駆けていった。それからは、まるで映画のように状況が急展開していった。
校内放送で「全員、教室に戻りなさい」と指示が出された。普段の避難訓練の放送とは明らかに違う、緊張感のある声。僕たちは騒ぎながらも、窓越しに男の動きを追った。彼は、校舎の入口付近で立ち止まり、しばらくその場で何かを考えているように見えた。そして次の瞬間、彼が校舎の中に入る姿が見えた。
「やばい、入ってきた!」と誰かが叫んだ。途端に恐怖が教室中を支配した。男子の数人は何かで武装しようと掃除用具を手にし、女子たちは机の下に潜り込んだ。僕も内心怯えながらも、なぜか窓際でじっとその男の行方を追っていた。
廊下からは教師たちが急いで移動する足音が響いていた。その一方で、男がどこに向かっているのか、誰も分からなかった。ただ、足音が近づいてくる気配がして、僕たちの教室の扉が揺れた時、心臓が止まりそうになった。
扉が開くことはなかったが、その瞬間、外から警察のサイレンの音が響き渡り、廊下の向こうで「止まりなさい!」という大人の怒鳴り声が聞こえた。どうやら警察が到着したらしい。それでも、男がどんな反応をしたのかは分からない。ただ、その後、彼が捕まるまでの時間がやけに長く感じられた。
後になって分かったことだが、彼はただ無言で校舎を徘徊していただけだったらしい。特に何かを壊したわけでも、人に危害を加えたわけでもない。結局、彼の身元や目的については教えてもらえなかった。
僕たちの中で、あの黒い男は「影のような存在」として語り継がれることになった。彼が校舎に現れた理由は分からないままだが、あの時の恐怖と静寂だけは、今でも鮮明に覚えている。
コメント