紫の町

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あの日のことを覚えていますか?
町中が紫に染まった、あの奇妙な夕暮れのことを。

私はその日、いつものように仕事を終えて自宅へ帰る途中でした。空は晴れていたはずなのに、急に紫色の光が降り注ぎ、まるで世界全体がフィルターをかけられたように変わってしまったのです。

「なんだこれ……」
車のフロントガラス越しに見える風景は、どこもかしこも紫一色。空も、建物も、道路も、人々の顔も。誰もが気づいているようで、ただ無言で周囲を見回していました。

町のスピーカーから、避難訓練か何かのアナウンスが流れるかと思いましたが、そんなものは一切なく、ただ風の音だけが聞こえる。紫の中を歩く人々の動きもどこかぎこちなく、まるで操られているように見えました。

不安を抑えきれず、私は家族に連絡を取ろうとスマートフォンを取り出しました。しかし、画面も紫に染まり、操作ができません。何度試しても変わらないどころか、画面にじわじわと奇妙な文字が浮かび上がってきたのです。

「もう帰れない」

その文字を見た瞬間、全身に冷や汗が流れました。慌てて車を走らせ、家を目指しましたが、道は普段とまるで違っていました。見慣れたはずの標識がどれもねじれ、書かれている文字は読めない。それでも本能的に進むべき道を選んでいるつもりでした。

しかし、どれだけ走っても家にたどり着くことはありませんでした。やがて紫の光は濃さを増し、視界がほとんど効かなくなった頃、私は車を止めるしかありませんでした。

車を降りて外に出ると、周囲はさらに異様な様相を呈していました。建物は歪み、道には影が踊るように見え、目の前を歩く人々の顔が少しずつぼやけ、やがて形そのものが崩れていくのです。

「なんだ、これ……」
声を出しても、返ってくるのは自分の声のようなものが歪んで反響する音だけ。私はその場に立ち尽くし、ふと足元を見ると、地面にも私自身の影がなくなっていることに気づきました。

それでも歩き続けるしかありませんでした。どれだけ歩いたのかもわからない頃、突然、視界の端に見慣れた家の屋根が映りました。あれは、確かに自分の家だ。

安堵した私は家のドアを開け放ち、中に飛び込みました。
「ただいま!」と叫ぶと、返ってきたのは聞き覚えのある家族の声。

しかし、顔を合わせた瞬間、私は凍りつきました。そこにいる「家族」は私と同じ顔をしていたのです。

紫の光に包まれた空間で、彼らは笑いながら私を見つめていました。そして、口を揃えてこう言ったのです。

「あの日、もうここにいるって決めたんでしょ?」

それから先の記憶はぼんやりしています。あの日以来、私が住む町が紫に染まらなくなったのは、たぶん、私が「ここ」に閉じ込められているからなのでしょう。

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