経理として働いていた頃の話だ。あの頃の職場は昼間の忙しさとは裏腹に、夜になるとまるで別の場所のように静まり返っていた。みんな帰宅し、最後に残るのは私一人。時折、換気扇の低い唸り声や、電灯の僅かな揺らぎが耳に入るだけだった。
その日もいつものように月次決算の帳簿をまとめていた。数字を追う作業は好きだったが、深夜の疲れが重なるとどうしても集中力が落ちてくる。ふと、机に広げた帳簿の一ページに妙なものを見つけた。
「1024円」
どの計算にも合わない数字が、一列だけぽつんと記されている。私はそれを削除しようと赤ペンを手に取ったが、何かが引っかかった。その数字、見覚えがある気がする。
すぐにデータを遡り、過去数年分の帳簿を確認した。すると驚くべきことに、どの年にも同じ「1024円」が記載されていたのだ。それが書かれた箇所は毎回異なり、どれも不自然に紛れ込んでいる。
「こんなミスが毎年?」
冷や汗が滲む。そんなはずはない。何度もチェックを繰り返してきた帳簿なのに。
翌日、上司に相談したが、彼は「見間違いじゃないか」と軽く流した。仕方なく、独自に調べることにしたが、その数字の出所は一向に掴めない。誰も気づかないまま、それは私の頭の中にじわじわと根を張っていった。
ある晩、ついに限界が来た。私はとうとう会社に泊まり込み、帳簿を徹底的に洗い直すことを決意した。
深夜、蛍光灯の明かりに照らされた机の上で、私はノートパソコンと帳簿を睨みつけていた。時計の針が2時を指した頃だ。
「また…」
ページを捲るたびに、どの帳簿にも「1024円」が浮かび上がる。しまいには、それ以外の数字が全て霞んで見え始めた。画面も帳簿も、すべての数字が「1024」に変わっていく。
「なんだこれ……」
額から汗が流れ落ちる。吐き気さえ覚えながら、思わず立ち上がったその時、オフィスの奥で物音がした。
カタッ、とファイルの落ちる音。
「誰だ!」思わず叫んだ。返事はない。
恐る恐る音のした方へ歩いていくと、倉庫のドアが少しだけ開いているのが見えた。何かの拍子で開いただけだと自分に言い聞かせながら、ドアをそっと押し開けた瞬間だった。
中には誰もいないはずの倉庫に、私の「影」が立っていた。それは私の顔をして笑っていたが、視線だけは私の方を見ていない。じっと手元の帳簿を睨んでいる。そして、低く囁いた。
「もう私にはなにもわからない」
その声を聞いた瞬間、全ての記憶が断ち切られた。気づけばオフィスの椅子に座り、机に突っ伏していた。朝日が差し込む窓が見える。何が起こったのか思い出せない。帳簿を開くと、そこには「1024円」の記録が消えていた。
以来、私は経理の仕事を辞めた。あの夜のことは誰にも話していない。けれど時折、スーパーのレシートや銀行の明細に「1024円」が現れるたび、心臓が跳ね上がるのだ。
それが何を意味するのか、私にはもうわからない。
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