あれは、僕が中学二年生の頃のことだ。あの頃の僕は、日々がまるで泥の中を這うようだった。家庭は、言葉を選ばずに言うなら「壊れていた」。
父は仕事を理由に家に寄りつかず、たまに帰ってきたかと思えば無言で酒をあおるだけだった。母は母で、細い体で家計を支えながらも、いつもどこか遠くを見ていた。無表情のまま夕飯を作り、黙って食卓に並べる。僕と目が合うことはほとんどなかった。
家の中は静かすぎて、たまに聞こえるのは冷蔵庫のモーター音と、隣家から漏れてくる子供の笑い声。それが僕には、まるで別世界の音のように思えた。
そんなある日、部屋でぼんやりしていた僕の目に、ふと天井の梁が映ったんだ。木造の家だから天井の隅に、太い木材がむき出しになっている。ああ、あそこなら、と考えてしまった。誰に教わったわけでもないのに、僕はそれを自然に理解していた。
でも、その瞬間、僕は自分の意志で首を吊ろうなんて、これっぽっちも考えていなかった。ただ、何かに“促される”ような感覚があった。部屋の隅に目をやると、白いロープが見えた。
——いや、待て。
白いロープなんて、そんなもの、僕の部屋にはないはずだ。見間違いだろう。そう思ったのに、視界の隅にはっきりとそれがある。そしていつの間にか、僕の手は何かを掴んでいた。
「……辛いだろうなぁ」
耳元で、誰かがそう言った。
思わず振り返ったが、部屋には僕以外、誰もいない。夕方の光が薄くカーテンを染め、壁には僕の影だけが伸びていた。けれど、僕の影が、少しだけおかしかった。
影が、ロープの端を握っているように見えたのだ。
僕は立ち尽くしたまま、全身が硬直した。体のどこかが「そのまま進め」と囁いていた。でも、僕の意識のどこかは必死にそれを振り払おうとしていた。
その時、階下から母の声が聞こえた。
「アンタ、部屋で何してるの?」
ハッと我に返ると、手には何もなかった。ただの空っぽの部屋だ。ロープなんて、もちろんどこにもない。なのに、その日から僕は、自分の部屋にいるとあの“白いロープ”の感覚が消えなかった。
家庭の空虚さが、あの影の中に住みついてしまったのかもしれない。僕が自分で終わらせようとしたわけじゃない。ただ、何かが僕を使って“終わらせよう”としていたのかもしれない。
それから僕は、部屋の天井を見ないようにして過ごすことにした。何かに気づかれないように、息を潜めながら。
今でも、何かの拍子に白いロープの幻が視界の端に揺れることがある。きっと、それは僕が抱えていた何かの残骸なのだろう。家族は今でも、あの頃のことは何も知らないままだ。
ただ、僕だけが知っている。
あの白いロープが、僕の部屋に“なかったはず”だということを
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