あの出来事は、今でも忘れられません。何の前触れもなく、静かに忍び寄る恐怖というものを初めて味わった夜でした。
それは友人の部屋でのことでした。彼が引っ越したばかりのアパートに遊びに行ったときです。築年数は古いものの、家賃が手頃で広さも十分、彼は満足げに部屋を案内してくれました。私は「なかなかいい部屋じゃないか」と感想を口にしながら、彼の新生活の話に耳を傾けていました。
その夜、遅くまで話し込んだ私たちは、気づけば深夜を回っていました。外は冷え込み、帰るのが億劫になった私は、友人の部屋に泊めてもらうことにしました。友人は布団を用意しながら「ここ、夜は結構静かなんだよ」と笑っていました。確かに、その部屋には妙な静けさがありました。周囲の住人の気配もなく、窓の外からも物音ひとつ聞こえません。
布団に入った私は、しばらく眠れずに天井を見つめていました。友人は隣の部屋で寝ているはずでしたが、ふと妙な気配を感じて、そちらに視線を向けました。
すると――薄暗い部屋の中、友人の布団の隣に誰かが座っているのが見えたんです。
最初は目の錯覚だと思いました。部屋の薄暗さのせいで何かがそう見えるのだろう、と自分に言い聞かせました。しかし、その「誰か」は明らかに人の形をしていて、布団に覆いかぶさるように友人に寄り添っていました。
それは、女でした。長い髪が顔を覆い隠し、ただじっと友人を見下ろしているようでした。その異様な姿に、私は声を上げることも動くこともできず、ただ目を凝らして見つめ続けるしかありませんでした。
やがて、その女がゆっくりとこちらに顔を向けました。その瞬間、私の全身が凍りつきました。顔には目も鼻もなく、まるで滑らかな白い布を被せたかのようだったのです。それでも、何かに「見られている」という感覚がありました。
私は布団を頭まで引き上げ、必死に目を閉じました。心臓が耳元で鳴り響くのを感じながら、ただ朝が来るのを祈るしかありませんでした。
翌朝、私は友人にその話をしました。最初は冗談だと思ったのか、彼は笑い飛ばしていましたが、私があまりにも真剣な顔をしているので、彼も次第に黙り込みました。そしてこう言ったのです。
「実はさ……最近、夜中に何かの気配を感じることがあったんだ。でも、それが何か分からないから、気にしないようにしてた」
それから数日後、彼の部屋に詳しい人に見てもらったところ、何の変哲もない場所だという結果でした。ただ、その女について一つだけはっきりしたことがありました。
彼には、その女と何の関係性もないということ。
幽霊というのは、何らかの縁や因縁があるものが取り憑くという話をよく聞きますが、この場合、彼とその女には接点が全くありませんでした。そこが一番不気味でした。理由もなく現れ、理由もなく寄り添っている――まるで彼の隣が「当たり前の居場所」であるかのように。
彼はその後、早々に引っ越しましたが、時折電話で「あのときのこと」を話題に出します。私も同じように、あの女のことを考えるたびに背筋が冷たくなるのを感じるのです。理由のない恐怖ほど、人を震え上がらせるものはない――それを実感した夜でした。
コメント