喜びの歌

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あの歌を思い出すと、今でも背筋が凍るんです。たとえ耳にしていなくても、頭の中で旋律が浮かび上がるたびに、胃の奥から何かがこみ上げてきそうになるのです。

あの夜のことを、今でもはっきりと覚えています。春学期の終わりに近づき、講義もひと段落した頃、私達はキャンパス近くの古びたアパートに集まっていました。特に何をするというわけでもなく、ただ飲みながら雑談していただけです。その場の誰かが持ってきたラジオが、妙な雰囲気を引き寄せたんだと思います。

あのラジオはかなり古いもので、チューナーを回しても雑音が多く、まともな放送局を拾うのも一苦労でした。それでも、手持ち無沙汰な私達は気まぐれで周波数を合わせ続けていました。すると、突然ノイズの中から、何かの曲が聞こえてきたんです。

ベートーヴェンの「喜びの歌」でした。ただ、どこかおかしい。旋律は同じはずなのに、何かが歪んでいる。テンポが不自然に遅くなったり速くなったり、ところどころで音が異様に低くなったりする。その不調和な響きに、最初は全員で笑い合っていたんです。

「なんだこれ、狂った『喜びの歌』か?」
誰かがそう冗談を言い、ラジオのボリュームを上げました。その瞬間、音楽が急に止まったんです。代わりに、低い声で何かが呟くような音が混じり始めました。それは言葉というよりも、何か得体の知れない感情そのものが形を成したような音でした。

「切れよ、こんなの」
誰かが言いました。でも、もう遅かった。あのラジオの音は部屋全体に染み込むように広がっていて、スイッチを切ろうとしても音が止まらなかったんです。

そして、あの奇妙な「喜びの歌」が再び流れ始めました。でも今度は、音楽の合間に何か別のものが混ざっていました。かすれた声で何かを歌うような、呻くような音。誰もその場で言葉を発することができませんでした。ただ全員、固まったようにラジオのスピーカーを見つめていました。

気がつくと、部屋の隅で一人がしゃがみこんでいました。彼は両手で耳を塞ぎ、震えていました。顔を上げた彼が言った言葉は、今でも忘れられません。
「止めてくれ……あいつが、笑ってる……」

誰も「あいつ」が何を指しているのか聞く勇気はありませんでした。結局、ラジオを叩き壊し、その夜は全員無言のまま解散しました。

後日、あのラジオを持ってきた友人が失踪しました。警察が動いたものの、何の手がかりも掴めなかったそうです。彼が最後に話していた言葉を、私はどうしても思い出してしまいます。
「あの歌、聞こえるんだよ。今も、どこかで誰かが笑ってるんだ」

それ以来、「喜びの歌」は私にとって恐怖の象徴です。あの夜、何が私達の耳に響いていたのか、それは未だに分かりません。ただ確かなのは、その旋律を思い出すたび、私の体が無意識に拒絶するということです。吐き気とともに――あの夜の恐怖が蘇るから。

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