帰ろう

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あの夏休みの山林での出来事を、思い返すたびに、全てが霧の中の出来事のようにぼんやりしている。けれど、あの瞬間の感覚だけは妙に生々しく、今でも手触りのように心に残っている。

それは八月の終わり、夏休みも終わりに近づいた日だった。私は友人たちと一緒に山林へ出かけた。目的は、ただの冒険。普段は見ないような景色を探したり、虫取りをしたり、そんな他愛もない遊びを楽しむつもりだった。

山林の入り口は涼しく、木漏れ日が差し込む穏やかな場所だった。鳥の声が響き、地面には湿った土の匂いが漂っていた。私たちは軽い気持ちで奥へ奥へと進んでいった。けれど、しばらく歩くと急に空気が変わった。鳥の声が途絶え、風が止んだように感じられたのだ。木々の影が濃くなり、薄暗い雰囲気が漂い始めた。

「ここ、変じゃないか?」
友人の一人が立ち止まり、周りを見回した。確かに、足元の土も妙に黒ずんでいて、枝に吊るされた何かの動物の骨のようなものが目に入った。悪い冗談をするような人間が入り込む場所ではないはずだった。

それでも、私たちはさらに奥へ進んだ。そして、ついに開けた場所に出た。そこは、木々の間にぽっかりとできた広場のような場所で、地面には古い石碑が一つだけ立っていた。その石碑には不思議な文字が刻まれていたが、誰もその意味を理解できなかった。ただ、触れるとひんやりと冷たく、どこか湿り気を感じた。

その時だった。私たちの誰かが「帰ろう」と言い出そうとした瞬間、遠くから太鼓のような音が聞こえてきた。それは一定のリズムで鳴り響き、次第に音量が増していく。どこから聞こえるのかわからない。山全体がその音に包まれているようだった。

そして、音とともに現れたのは人影だった。いや、人影というよりも、何かの「形」だと言ったほうが正しい。木々の隙間からぞろぞろと、それが姿を現し始めた。白い衣を纏い、顔は見えない。ただ、その動きが妙に滑らかで、まるで足を使っていないように見えた。

恐怖で声が出なかった。私たちはただその場で立ち尽くし、彼らが石碑を囲むように集まるのを見ていた。やがて、石碑の上に薄い霧が立ち上り、その中から何かの形が浮かび上がった。それが何だったのか、正確に言葉で説明するのは難しい。ただ、私たちはそれを見た瞬間、全員同じ感覚を共有した。「ここにいてはいけない」という感覚だった。

誰からともなく逃げ出し、何も考えずに山を駆け下りた。振り返る余裕もなかった。ただ、あの石碑と霧、そして白い衣の集団が頭から離れなかった。

家に帰り着いた後、誰もそのことについて語ろうとはしなかった。翌日、再びその山林へ行こうという話も出なかった。それ以来、あの山の名前を聞くたびに心臓が跳ねるような気がする。ただ、それ以上深入りする気にはなれない。

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