それは、大学時代の夏休み、友人たちと夜通し語り合った帰り道のことでした。時刻は午前3時を過ぎ、街は静まり返り、街灯の光がぼんやりと道路を照らしていました。空には薄い雲がかかり、月明かりも頼りない夜でした。
人気のない道を一人で歩いていると、不意に視界の端に何か動くものが見えました。道路脇の公園に設置されたベンチの上に、誰かが座っていました。近づくと、それが一人の女性であることが分かりました。
彼女は薄いワンピースを着ていて、肩までの髪が乱れたまま。顔はうつむき、何かを抱えるような姿勢でした。その時点で、私は関わるべきではないと直感しました。こんな時間に、こんな場所で一人きり――普通ではないと。
けれど、目を離すことができませんでした。視線をそらそうとした瞬間、彼女が手元で動かしているものが何か気になってしまったのです。
もう少し近づいてみると、彼女の手の中にあるのが小さな人形だと分かりました。それは、いわゆる「市松人形」のような、古風な日本の人形でした。髪が艶やかで、顔は陶器のように白く、和服をまとっている。彼女はその人形をじっと見つめていました。
しかし、次の瞬間、彼女が何をしているのか理解した途端、背筋が凍りつきました。
彼女は人形の顔に自分の歯を当てていました。陶器の硬い表面をかじり、時折、バリッ……という音が聞こえるのです。かじられた人形の顔には、無残なひび割れが広がっていました。彼女はその破片を口の中に入れると、ゆっくりと咀嚼し、何かを呟くような声を漏らしていました。
「……おいしい……おいしい……」
その声は掠れていて、まるで壊れたラジオのような不気味さがありました。
私はその場から逃げ出したい気持ちでいっぱいでしたが、体が硬直して動けませんでした。ただ見つめるしかなかったのです。その時、彼女がふいに顔を上げました。
その目が、私を捕らえました。彼女の瞳は濁っていて、生気がありませんでした。でも、私がそこにいることを確実に「認識している」と感じました。
彼女の唇が動き、再び掠れた声で囁きました。
「食うか?」
その言葉を聞いた瞬間、体が弾かれたように動き、私は全力でその場を走り去りました。後ろを振り返ることなく家にたどり着き、扉を閉めた瞬間、全身の力が抜けてその場に崩れ落ちました。
翌日、あの場所を確認しに行きましたが、公園には誰もおらず、人形やそれらしき痕跡もありませんでした。友人たちに話しても「飲みすぎて幻覚を見たんだろう」と笑われるだけでした。
でも、私は確かに見たのです。あの女性と、人形を食べるその異様な光景を。今でも、人形の顔や陶器の破片を見るたびに、あの音と彼女の囁きが蘇ります。
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