研修が終わった夜、私は指定されたビジネスホテルにチェックインしました。建物は少し古びていましたが、特に問題は感じませんでした。部屋に入ると、狭いながらも整えられた空間が広がり、窓からは秋田の街並みが見渡せました。荷物を置き、シャワーを浴びた後、ベッドに横になりました。
時刻は夜11時過ぎ。明日の準備も終わり、いつの間にか眠りに落ちていました。
気が付くと、部屋の空気が妙に冷たくなっていました。エアコンはつけていないはずなのに、布団越しでも寒気を感じるほどでした。目を開けると、部屋の天井が暗闇の中にぼんやりと見えました。そして、耳元でかすかな音が聞こえたのです。
「……こっち……」
最初は風の音だと思いました。でも、確かにそれは「声」でした。低く、ゆっくりとした調子で何かを囁くような声が聞こえたのです。眠気が吹き飛び、体を起こそうとしましたが……動けませんでした。
全身が布団に押し付けられるように重く、力が入りません。金縛りだと思い、何とか目だけでも動かして周囲を確認しましたが、部屋の中には誰もいないようでした。けれども、声はどんどん近づいてきます。
「……ここだよ……」
耳元で囁かれるその声に、全身が恐怖で震えました。そして、視界の端に何かが見えたのです。ベッドの脇に、人影が立っていました。それは真っ黒な影のようなもので、形は人間のようでしたが、顔も手もぼんやりとして、詳細が分かりません。ただ、じっと私を見下ろしているのが分かりました。
「……お前も……」
その声が聞こえた瞬間、影がゆっくりと私の上に覆いかぶさるように近づいてきました。息が詰まり、頭が割れるような痛みが走りました。何とか声を出そうとしましたが、喉が塞がれたように声も出ません。ただ必死で「動け」と心の中で叫び続けました。
次の瞬間、ふっと重みが消え、私は跳ね起きました。部屋の電気をつけると、そこには誰もいませんでした。時計を見ると、まだ夜中の2時。布団は汗でびっしょり濡れていました。
その後、一晩中眠ることはできず、明るくなるのを待って早々にチェックアウトしました。フロントの人に「この部屋で何か変なことがあったのか」と尋ねましたが、特に何も知らない様子でした。
その体験以降、私は「ただの金縛りだった」と自分に言い聞かせています。でも、あの声や影が何だったのか、未だに説明がつきません。ホテルに泊まるたび、今でもあの夜を思い出してしまいます。
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