その日は仕事で疲れていて、銭湯に行こうと思ったんだ。あの頃住んでいた町には、昭和の雰囲気が残る古い銭湯がいくつかあった。選んだのは、家から少し離れた、商店街の裏にある「松の湯」ってところだった。普段は行かない場所だったけど、その日は何となく「新しいところに行きたい」と思ってね。
銭湯は古びていたけど、清潔感があって悪くなかった。下足箱に靴を入れて、番台のおばあさんに挨拶しながら中に入った。男湯は割と空いていて、広い浴場に客は3人ほどしかいなかった。
体を洗って、湯船に浸かった。熱めのお湯が体に染み渡るようで、本当に気持ちよかったんだ。でも、しばらくしてから少し違和感を覚えた。湯気の向こうに、人影が見える。最初は気にしなかったんだけど、よく見ると、その人影が少しおかしい。
普通、湯船に浸かると肩まで沈むだろう?でも、その人影は首だけが水面から出ていて、体がまったく見えないんだ。しかも動かない。まるで、湯船の底から頭だけを突き出しているように見えた。
「疲れて目がおかしくなったのかな」と思って、目をこすったり湯気を払ったりしたけど、人影は消えない。怖くなって湯船から出て、体を拭いて脱衣所に戻ろうとした。でも、その瞬間、後ろから聞こえたんだ。
「湯船の中、自分、誰?」
その声は、誰が話しているのか分からないほど低くて湿った声だった。思わず振り向いたけど、湯船にはもう何もいなかった。
急いで服を着て、銭湯を出た。帰り道、ふと振り返ると、松の湯の煙突から湯気が上がっている。何気なく見上げたその煙が、人の顔みたいに見えたのは気のせいだったのかもしれない。でも、それ以来、どんなに疲れていても銭湯には行けなくなったよ。
今でもあれが何だったのか、考えたくない。でも、もし君が銭湯に行くことがあるなら、湯船の中をじっと見ないほうがいい。何が見えるか分からないからね。
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