あれは、大学2年の秋だった。夕方の講義を終えて家に帰る途中、何気なく路上に目をやると、小さなポーチが落ちているのに気づいた。黒いレザーで、小銭入れくらいの大きさ。落とし主がすぐに見つかるだろうと思い、そのまま通り過ぎようとしたが、なぜか気になって足を止めた。
「中身を確認して届けた方がいいかもな」
手に取ると、思った以上に軽かった。中を開けてみると、小さな鍵が一つ入っていた。それだけだ。家の鍵だろうか。刻印はなく、何の鍵かは分からなかった。
結局、近くの交番に持って行こうとポーチをポケットに入れたまま帰路を急いだ。
その晩、家で課題をしていると、玄関のチャイムが鳴った。こんな時間に来客なんて珍しい。時計を見ると、夜の10時過ぎ。恐る恐るドアスコープを覗いてみたが、外には誰もいない。
妙だなと思いながらも気にせず戻ろうとした瞬間、足元に気づいた。玄関の隙間から、誰かが書いたメモが差し込まれている。
「鍵を返してください」
鳥肌が立った。ポーチを拾ったことを知る人がいる? でも、誰がどうやって?
恐怖を抑えつつ、ポーチを確認した。確かに鍵はまだ中にある。翌朝すぐ交番に持って行こうと決め、そのままベッドに入った。
夜中、再びチャイムが鳴った。寝ぼけながら玄関に向かい、ドアスコープを覗いたが、やはり外には誰もいない。ただ、廊下の端で何かが動いた気がした。
気味が悪くなり、ポーチをテーブルの上に置いて再び布団に潜り込んだ。しかし、しばらくして耳元で微かな声が聞こえた。
「返して……」
目を開けると、テーブルの上のポーチがなくなっていた。部屋中を探しても見つからない。誰かが持ち去ったのか? それとも……。
翌朝、交番に行くことはなかった。なぜなら、その日からポーチも鍵も、まるで最初から存在しなかったかのように消えていたからだ。
ただ、それ以来、誰もいないはずの玄関から時折音がする。そして、ドアの隙間には「返して」というメモが増え続けている。
何を返せと言うのか。もう持っていないはずの「鍵」が、今もどこかにある気がしてならない。
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