私が大学を卒業して初めて借りたアパートは、昭和の香りが漂う古びた建物だった。周囲には同じような古い住宅や空き地が点在していて、夜になるととても静かだった。
入居したその日、隣の部屋に住む住人が挨拶に来た。30代くらいの男性で、落ち着いた物腰の人だった。丁寧に「何かあれば遠慮なく言ってください」と言われ、初めての一人暮らしに少し心が和らいだのを覚えている。
しかし、それ以降その隣人を見ることはなかった。挨拶の後、顔を合わせることも、物音を聞くこともない。仕事で忙しいのかと思ったが、ふと気づくと、部屋の明かりも常に消えたままだった。
入居してから2週間ほど経った夜のこと。ベッドで寝ていると、壁越しに物音が聞こえてきた。隣の部屋から、何かを引きずるような音だ。
「やっと帰ってきたのか?」
そう思いながら耳を澄ますと、今度は何かが壁をトントンと叩く音がした。まるで私の部屋に合図を送るようなリズムだ。気味が悪くなり、翌朝、管理人に相談してみた。
「隣の人、どんな人なんですか?」
すると管理人は、少し驚いた表情でこう言った。
「隣? あそこは空き部屋ですよ」
そんなはずはない。あの男性と確かに話したし、声も聞いた。でも管理人は首を横に振るだけで、契約書を確認しても、隣の部屋は確かに空き部屋になっていた。
その夜、再び隣の部屋から物音がした。今度は、何かが壁を爪でひっかくような音だ。怖くなって布団をかぶったが、音は止まらない。
やがて、それがだんだんとこちらの部屋に近づいてきたように感じた。壁越しではなく、部屋の中から聞こえるような……。
勇気を振り絞って電気をつけたが、何もいない。ただ、隣の部屋に面した壁には、薄く何かが描かれているような跡があった。
翌日、友人に頼んで一緒に隣の部屋を覗いてもらうことにした。管理人に頼み込み、鍵を借りて扉を開けると、部屋の中は埃っぽく、家具も何もない。ただ一つだけ、床の中央に薄汚れた布団が敷かれていた。
その布団の上には、小さな紙切れがあった。
「ありがとう。また会おう」
友人と顔を見合わせたが、意味が分からなかった。布団の中を調べる勇気はなく、そのまま部屋を後にした。
それ以来、隣の部屋から音が聞こえることはなくなった。ただ、夜になると時折、壁を隔てた向こう側から、かすかな息遣いを感じることがある。
あの部屋に誰が住んでいたのか、本当に空き部屋だったのか――もう確かめるつもりはない。けれど、隣の部屋の壁を見ていると、今でも誰かが「じっとこちらを見ている」ような気がするのだ。
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