友人のAが、少し古めのマンションに引っ越した直後の話だ。引っ越し祝いを兼ねて、彼の部屋で飲むことになり、私は夕方頃に訪れた。そのマンションは、築30年は経っていそうな雰囲気で、エントランスには「夜間のゴミ出し禁止」「エレベーターの使用は10時までに」といった細かいルールが掲示されていた。
「ずいぶん厳しいところに住んだな」と冗談めかして言うと、Aは少し困った顔をした。
「実はさ、引っ越してきた時に管理人から直接注意されたんだよ。『このマンションでは、部屋を借りる人全員がルールを守らないと住民に迷惑がかかります』って」
管理人の言葉が少し威圧的だったらしいが、Aは特に気にせず「まあ古いマンションだし、そんなものか」と納得していた。
その夜、酔いも回ってきた頃、リビングの窓の外から「カン、カン」と何かを叩く音がした。私は気になってカーテンを少し開けたが、何も見えない。9階の部屋だし、人がいるはずもない。
「風か何かだろ」とAは笑ったが、音はそれからも断続的に続いた。少し不気味に思ったが、酒が回っているせいで気にしすぎかと、そのまま忘れることにした。
深夜1時頃、私は帰るためにエレベーターを使おうと廊下に出た。しかし、ボタンを押してもエレベーターは動かない。マンションのルールを思い出した。「エレベーターの使用は10時まで」。そんなの、いくらなんでも不便すぎる。
仕方なく階段で降りることにした。古びた階段は薄暗く、鉄の手すりは冷たかった。6階あたりまで降りた時、突然後ろで「カン、カン」という音が聞こえた。振り返ると誰もいない。しかし、音は確かに階段の上から近づいてきている。
私は急いで足を早めた。5階、4階、どんどん降りるにつれて、音も速くなる。恐怖で体が震え、とうとう一気に1階まで駆け下りてしまった。
マンションのエントランスに着くと、そこにはスリッパを履いた中年の女性が立っていた。彼女は私をじっと見つめ、少し怒ったように口を開いた。
「このマンションでは、夜間に階段を使うのは禁止なんです。ご存じありませんか?」
そう言われて、私は何も言えなかった。その場を逃げるように出て行き、家に帰った後もしばらく眠れなかった。
後日、Aにその話をしたが、彼は笑うだけだった。「確かに細かいルールがあるけどさ、階段禁止なんて話、聞いたことないよ」
気になってAのマンションを調べてみたが、そのマンションには「夜間の階段使用禁止」というルールは本当にあった。ただし、理由については何も書かれていない。
今でも時折思い出す。あの時、階段の上から聞こえてきた「カン、カン」という音の正体が、何だったのか。
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