あれは、数年前の冬のことだ。仕事の関係で、都会から少し離れた古いアパートに住んでいた頃だった。築年数が経っていたが、周囲は静かで、家賃も安かったため気に入っていた。だけど、その場所で体験した出来事は、今でも忘れられない。
ある夜、遅くまで仕事をしていた私は、ふとベランダに出て冷たい夜風に当たっていた。冬の夜は静かで、周囲の音はほとんど聞こえない。月明かりが弱々しく辺りを照らしている中、ふと隣の家の庭に何かが見えた。
最初は何かわからなかったが、目を凝らして見ると、それは猫の頭だった。体はなく、まるで切り取られたかのように頭だけがぽつんと置かれていたのだ。信じられない光景だった。誰かの悪質ないたずらだろうかと、鳥肌が立ったが、目をそらすことができなかった。
その猫の頭は、じっとこちらを見つめていた。じっと…という表現では足りないかもしれない。目がこちらをしっかりと捉えていたのだ。何かを訴えるような、怨念のこもった視線だった。思わず後ずさりしてベランダのドアを閉め、カーテンを引いた。
それでも、あの視線が背中に焼き付いて離れなかった。部屋の中で一人、息を潜めていると、ドアの外から小さな音が聞こえてきた。「トントン」という音。まるで何かがドアを叩いているような音だった。心臓が跳ねるように動き、私は固まってしまった。
しばらくの間、ただじっとしていたが、音はだんだん大きくなってきた。そして、次に気がついた時、ドアの下の隙間から、何かが覗き込んでいるのを見た。
猫の目だった。あの、庭で見た猫の頭と同じ目が、ドアの隙間からこちらをじっと見つめていた。体はどこにも見当たらない。ただ、目だけが、じっと私を見続けていた。
その後、音は急に止み、視線も消えた。しかし、それからというもの、夜になるとどこからか猫の鳴き声が聞こえるようになった。姿は見えないが、あの視線だけは感じるのだ。
あの日から、私はそのアパートを引き払った。猫の頭の正体が何だったのか、今でもわからない。ただ、あの怨念に満ちた目のことを考えると、二度とその場所には戻りたくないと思う。
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