逃げた話

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あれは、もう10年近く前のことになる。当時、私は田舎の工場で働いていて、夜勤に慣れ始めた頃だった。仕事自体は単調だったけれど、夜中の静けさと工場の薄暗い雰囲気には、時々背筋が寒くなることがあった。

その夜も、いつも通り深夜2時過ぎに仕事を終え、帰宅するために車を走らせていた。工場から自宅までは30分ほどで、山を越えていく細い道を通らなければならない。その道は、街灯も少なく、夜になるとほとんど誰も通らない。真っ暗な山道を一人で運転していると、いつもどこかで誰かが見ているような感覚に襲われることが多かった。

その日も、特に何事もなく運転していたのだが、ふとバックミラーに何かが映った。何かがちらりと見えた気がして、私は急いでブレーキを踏んだ。車が止まると、ミラー越しに目を凝らしたが、何もない。気のせいか、と自分に言い聞かせて再び車を走らせた。

ところが、数分後、またバックミラーに動く影が見えた。今度ははっきりと、何か白いものが遠くで揺れていた。ミラーの向こうには誰もいないはずの暗い山道しかないのに、何かがゆらゆらと動いているように見えたのだ。

「こんな場所に誰かいるはずがない」と思いながらも、背中には冷たい汗が流れ始めていた。それでも気にしないようにして前を見つめ、速度を少し上げてその場を離れようとした。

だが、次の瞬間、今度はミラーを見ていないのに感じた。後ろから何かが近づいてくる感覚があったのだ。背中にぴたりと貼りつくような視線。意識せずにはいられなくなり、ちらりとバックミラーを確認すると、そこに――人影がいた。はっきりとした輪郭を持つものではなく、ぼんやりとした白い形が後ろをついてきているのが見えた。

頭が真っ白になり、私は無意識にアクセルを踏み込んだ。車が山道を猛スピードで駆け上がる。それでも、ミラーの中に映る影は消えなかった。距離が縮まるような気がして、私はもうミラーを見ないようにして、ただひたすら前だけを見つめていた。

家に着くまでの道のりがいつもより何倍も長く感じた。車をガレージに停め、すぐに家の中へ駆け込んだ。ドアを閉めた瞬間、肩の力が抜け、ようやく息をつくことができた。

それ以来、夜勤が終わった後に山道を通るのが怖くなった。何がついてきていたのか、それともただの見間違いだったのか、今でもわからない。ただ、あの時感じた背中を這うような視線と、ミラーに映るあの白い影は、今でも忘れられない。

二度と、あの道でバックミラーを確認する勇気は持てそうにない。

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