その家に引っ越してきたのは、つい最近のことだった。仕事の関係で都会を離れ、静かな田舎町に住むことになった。新しい家は古びた木造の一軒家で、周囲には古い農家や畑が点在していた。空気が澄んでいて、都会の喧騒とは無縁の静かな環境だった。
初めてその家を見たとき、私はすぐに気に入った。広い庭があり、周囲には緑が広がっていた。家の中も趣があり、木の温もりが感じられた。唯一の問題は、家が古いせいか、少し傷んでいるところがあったことだ。特に壁紙はところどころ剥がれていて、少し手入れが必要だった。
引っ越しの荷物を片付けながら、私は家の中を見て回った。寝室に向かう途中、廊下の一角に奇妙なものを見つけた。壁に小さな花が描かれていたのだ。最初はただの壁紙の模様かと思ったが、近づいてよく見ると、それは手描きの絵だった。小さな白い花が、まるで誰かが急いで描いたかのように壁に残されていた。
「誰がこんなところに花を描いたんだろう?」
私は不思議に思いながらも、特に気にせずにその場を離れた。家を片付けるのに忙しかったので、その花のことはすぐに忘れてしまった。
しかし、数日後、私は再びその花を目にした。夜、寝室に向かう途中、ふと壁に目をやると、花が増えていた。最初に見た花の横に、もう一つの白い花が描かれていたのだ。
「誰が…?」
私は混乱し、家の中を見回したが、他に誰もいない。私は一人暮らしをしており、家に入るのは自分だけだ。誰が花を描いたのか、全く見当がつかなかった。
不安がよぎったが、気のせいだと思い込もうとした。疲れているから幻覚でも見ているのだろう、そう自分に言い聞かせた。しかし、次の日の夜、再び花が増えていた。今度は三つ目の花が描かれていた。
「一体何が起こっているんだ…?」
私は耐えきれず、友人に相談することにした。友人は半信半疑だったが、興味を持ち、家に来てくれた。二人でその花を見つめ、友人は驚いた顔をした。
「確かに花が描かれているな…でも、どうやって?君以外にここに来た人は?」
私は首を振った。誰も訪れていないし、自分以外にこの家にいるはずがない。友人はしばらく考え込み、ふとあることを思い出した。
「もしかして、この家の前の住人が何か残していったんじゃないか?」
その言葉に、私は考え込んだ。前の住人については何も知らなかった。そこで、町の不動産業者に問い合わせることにした。
不動産業者によると、この家の前の住人は独り暮らしの女性で、数年前に亡くなっていたという。彼女は生前、庭で花を育てるのが好きだったそうだ。しかし、亡くなった後、家はしばらく空き家になっていた。
「彼女が花を描いたのか…?」
私はそう考えたが、亡くなった人がそんなことをするとは思えなかった。それでも、気味が悪かったので、私は花の描かれている壁を塗り直すことにした。ペンキを買ってきて、花の上から塗り直した。これで終わりだと思った。
しかし、その夜、再び壁に花が現れた。今度は四つ目の花が描かれていた。私は恐怖で震え、家の中を駆け回った。誰もいない、誰もいないのに、花が増えていく。
「お願いだ、やめてくれ!」
私は叫び声を上げたが、誰も答えなかった。ただ静かな夜が続くだけだった。
次の日、私は再び壁を塗り直した。しかし、その晩、また花が増えていた。五つ目、六つ目、花は次々と増えていった。私は恐怖で眠れなくなり、毎晩壁を見張るようになった。
ある晩、私は眠れないまま、壁の前に立っていた。時計が深夜の12時を過ぎた頃、突然冷たい風が吹き抜け、電気が消えた。暗闇の中で、私は何かが動く音を聞いた。恐る恐る電気をつけると、目の前の壁に新しい花が描かれていた。
「何だ、これは…?」
花の中央には、何かが描かれていた。それは、小さな人影のようだった。私は恐怖で後ずさり、家を飛び出した。その後、私は二度とその家に戻ることはなかった。
数年後、その家は取り壊され、新しい家が建てられた。私は二度と訪れなかったが、あの夜の出来事は今でも夢に出てくる。壁に描かれた花と、その中央に立つ小さな人影が、今でも私の記憶に深く刻まれている。あの家に何が隠されていたのか、誰が花を描いていたのか、答えは永遠に謎のままだ。
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