東京の目抜き通り、夜のネオンが煌めく中、私は人混みをすり抜けるように歩いていた。仕事の会合が終わり、ふらふらと夜の街を歩くのが習慣になっていた。都会の喧騒の中で一人でいると、まるで自分が消えてしまったような気持ちになれる。それが私にとってのささやかな逃避だった。
その夜も、私は通りを歩いていた。店の明かりがまぶしく、行き交う人々の顔がぼんやりと浮かび上がる。どこに向かうわけでもなく、ただ歩く。そうしていると、ふと人々の間から視線を感じた。周りを見回すと、誰かがこちらをじっと見つめているのがわかった。
遠くからこちらを見ているのは、初老の男性だった。彼は背の高い細身の体に、古びたスーツをまとっていた。私は一瞬、彼の目と目が合ったように感じたが、すぐに目を逸らした。知らない人に見られているというのは、奇妙な感覚だった。
私は歩く速度を速め、人混みの中に紛れ込んだ。だが、ふと立ち止まり、後ろを振り返ると、彼はまだこちらを見ていた。少し気味が悪くなり、私はそのまま通りを抜けて裏道に入った。裏道は静かで、人の気配はほとんどなかった。
しばらく歩いた後、私は足を止めた。誰もいないはずの裏道で、再びあの視線を感じたからだ。振り返ると、そこには先ほどの男性が立っていた。彼は私に向かって歩み寄り、そのまま立ち止まった。暗がりの中で彼の顔がぼんやりと浮かび上がり、その目がこちらを見つめていた。
「貴方ですか?」
彼は低い声で言った。その言葉に、私は驚いて声を失った。何を言われたのか理解できなかった。ただ、その声がどこか悲しげで、絶望的な響きを持っていたことだけは分かった。
「貴方ですか?」
彼は再び同じ言葉を繰り返した。私は答えることができず、ただその場に立ち尽くしていた。彼の目は私の心の奥を見透かすように感じられ、逃げ出したいという衝動に駆られた。
「誰かと間違えているんじゃないですか?」
私はようやく声を絞り出したが、彼の表情は変わらなかった。彼は私の顔をじっと見つめ、再び口を開いた。
「貴方ですか?私を覚えていますか?」
その言葉に、私は背筋が寒くなった。まるで彼が私を知っているかのような、その言い方が恐ろしかった。私は頭の中で必死に彼の顔を思い出そうとしたが、全く記憶にない。
「ごめんなさい、私は貴方を知りません」
私は震える声で答えた。すると、彼は少し悲しそうな表情を浮かべ、ため息をついた。
「そうですか…やはり、貴方ではなかったのかもしれません」
彼はそう言い残し、踵を返して歩き出した。私はその場に立ち尽くし、彼の背中を見送った。彼が角を曲がり、姿が見えなくなると、私は一気に安堵感が広がった。
それから数日後、私は再びあの目抜き通りを歩いていた。夜の街は相変わらず人で溢れていたが、私はどこか不安な気持ちを感じていた。再びあの男性に会うのではないかという予感があったのだ。
ふと通りの向こう側を見ると、あの男性が立っていた。彼は相変わらず私を見つめていた。恐怖で足がすくんだが、私はそのまま歩き続けた。彼の視線を感じながら、私は街の明かりの中に消えていった。
彼が誰で、なぜ私に「貴方ですか?」と尋ねたのか、答えは分からない。ただ、彼の目の奥に宿っていた悲しみが、私の心に残り続けている。
あの目抜き通りを歩くたびに、彼の視線を感じるような気がしてならない。彼の「貴方ですか?」という問いかけが、今でも私の耳に響き続けている。
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