それは、小学生の頃の夏休みのことだった。私の家の近くには小さな沼があり、毎年夏になると、そこでトンボを捕まえて遊ぶのが楽しみだった。友達と網を持って、沼の周りを走り回り、トンボを捕まえてはすぐに逃がす。そんな日々が続いていた。
ある日、私は一人で沼に行くことにした。友達は宿題をしなければならないと言って来られなかったが、私はどうしてもトンボを捕まえたかった。沼に着くと、蒸し暑い空気が肌にまとわりつき、辺りはセミの鳴き声で満ちていた。
沼のほとりに腰を下ろし、トンボが飛んでくるのを待っていると、水面にボウフラが蠢いているのが見えた。無数のボウフラが、水面を上下に動きながら、まるで何かを求めるように揺れていた。
「こんなにたくさん…」
私は驚きながら、水面をじっと見つめた。ボウフラたちはまるで生き物のように動き、互いにぶつかり合いながら水面を漂っていた。私は手を伸ばし、そっと水面を撫でてみた。すると、ボウフラたちは一瞬にして散り、再び集まってきた。
その時、トンボが一匹飛んできた。大きな翅を広げて、私の前をゆっくりと飛んでいる。私はそっと網を持ち上げ、トンボを捕まえようとした。しかし、トンボはするりと私の網を避け、再び沼の上を飛び回り始めた。
「待てよ!」
私は何度も網を振ったが、トンボは巧みに網を避け、ついには私の手の届かないところへ飛んで行ってしまった。諦めかけたその時、沼の奥から奇妙な音が聞こえた。まるで水が泡立つような、低い音だった。
音の方に目をやると、水面が波打ち、何かが蠢いているのが見えた。私は沼に近づき、その音の正体を確かめようとした。水面が大きく揺れ、何かが水中から顔を出した。
「な、何だ…?」
そこには、人の顔があった。しかし、それは普通の人間の顔ではなかった。青白い肌に、目は空洞のように見開かれ、口は何も言わずに開いていた。私は恐怖で動けなくなり、その顔をじっと見つめた。
その時、トンボが再び飛んできた。今度は私の肩にとまり、その目がじっと私を見ているようだった。私はそのトンボの目に引き込まれるようにして、再び沼の中の顔を見た。
顔はゆっくりと口を動かし、何かを言おうとしているようだった。しかし、何も聞こえなかった。ただ、その目が私を見つめ続けていた。
突然、顔が水中に沈み、沼の水面が静まり返った。私は恐怖でその場に立ち尽くし、トンボが肩から飛び立つのを感じた。トンボは沼の上を飛び回り、まるで私を導くように沼の奥へと飛んでいった。
私は足が震えながらも、トンボを追いかけるようにして沼の奥へと歩いていった。水面には再びボウフラが蠢き始め、何かが私を呼んでいるような気がした。
「ここにいてはいけない」
そう思い、私は急いで沼を離れ、家に帰った。それ以来、私は二度とその沼に近づくことはなかった。あの日見た顔が何だったのか、なぜトンボがあのように飛び回っていたのか、答えは見つからない。
ただ、今でもあの沼のことを思い出すと、背筋が寒くなる。トンボが飛び回るあの光景と、ボウフラが蠢くあの水面が、今でも夢に出てくることがある。沼は私を呼び続けているのかもしれない。
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