冬の終わりが近づいているとはいえ、まだまだ寒さが厳しい日が続いていた。私はその日、久しぶりに故郷の村に戻ることにした。都会の喧騒から離れて、少し静かな時間を過ごしたかったのだ。村に着くと、雪が積もっていて、まるで時が止まったような静けさが漂っていた。
実家に着いてみると、母は笑顔で迎えてくれた。温かいお茶を出してくれて、久しぶりの故郷の味が身に染みた。話をしていると、ふと母が「隣の家のことを覚えてるかい?」と聞いてきた。
「隣って、あの古い家のこと?」
私は子供の頃に遊びに行ったことのある、あの古い木造の家を思い出した。長い間空き家になっていたが、最近になって誰かが住み始めたと聞いていた。
「そうだよ。最近、また誰か住み始めたみたいなんだ。でも、その人がどんな人かは誰も知らないんだよね。見たことがないんだから」
母の言葉に、少し不思議な感じがした。小さな村で誰かが引っ越してきたら、すぐに話題になるものだ。隣の家に誰が住んでいるのか、見に行ってみることにした。
隣の家に向かって歩いていると、足元の雪がガラガラと音を立てた。雪の下には小石や枯れ葉が隠れていて、それが踏まれるたびに音を立てるのだ。雪が降り積もる静かな夜に、その音はやけに大きく響いた。
家の前に着くと、ドアが少しだけ開いていた。中からはかすかな光が漏れていて、誰かがいることは確かだった。私はドアを軽く叩いた。
「こんにちは、誰かいますか?」
返事はなかったが、しばらくするとドアの奥からかすかな音が聞こえた。まるで何かが飛び回っているような音だ。耳を澄ますと、それが蠅の羽音であることに気づいた。
「この寒さで蠅がいるなんておかしいな…」
私は不思議に思いながらも、ドアを少し開けて中を覗いた。中は薄暗く、部屋の中には古びた家具が置かれていた。その真ん中に、一人の老人が座っていた。彼は背中を向けていて、こちらには気づいていない様子だった。
「すみません、お邪魔しています。隣に住んでいる者ですが…」
その言葉に、老人はゆっくりと振り返った。彼の顔は痩せこけていて、目には力がなかった。だが、何か深い哀しみがその目に宿っているように感じた。
「ごめんなさい。こんな寒い日に誰も訪ねてくるとは思っていなかった」
彼の声はかすれていて、どこか遠くから聞こえてくるようだった。私は少し戸惑いながらも、家の中に入ることにした。
部屋の中にはたくさんの古い本が散らばっていて、ところどころに蠅が飛び回っていた。私はその光景に違和感を覚えたが、何も言えなかった。
「この家には昔、私の家族が住んでいたんだよ。でも、皆どこかに行ってしまった。私だけがここに残されてね」
老人はぼんやりとした目で話し始めた。私はその話に引き込まれるように、静かに耳を傾けた。
彼の話によると、彼の家族は皆、冬のある夜に消えてしまったという。それ以来、彼はこの家で一人暮らしを続けている。そして、家族が戻ってくるのを待っているのだという。
「でも、最近になってやっと気づいたんだ。私の家族はもう戻ってこないんだって」
老人の言葉に、私は胸が締めつけられるような気持ちになった。その時、部屋の中を飛び回っていた蠅が急に私の顔の前に飛び出してきた。驚いて手で払うと、蠅は床に落ちた。
その瞬間、床に散らばっていた本の一冊がふと開き、中から一枚の写真が落ちた。拾い上げてみると、それは若い頃の老人とその家族の写真だった。みんなが笑顔で写っている写真を見て、私は言葉を失った。
「この家に来ると、皆この写真を見つけるんだ。そして、皆が同じことを言う。『連れて行け』とね。でも、もう誰も連れて行くことはできないんだ。皆、いなくなってしまったんだから」
老人の言葉に、私は何も言えなかった。ただ、外の冷たい風が部屋の中に吹き込み、雪の匂いが漂ってきた。ガラガラと音を立てる雪の中に立ち尽くし、私は老人の目をじっと見つめていた。
「そうか、誰もいないんだね」
その言葉を残して、私は家を出た。雪の中を歩きながら、私は振り返らずにその場を去った。ガラガラと音を立てる雪の音が、耳に残っている。
その後、隣の家には誰も住んでいないと知った。あの夜に会った老人が何者だったのか、今でもわからない。ただ、あの家にはもう二度と近づきたくないと思った。雪が溶けても、あの家はずっと静まり返ったままだった。
コメント