タバコは吸わない。僕はそう決めている。それでも、タバコの煙には何かしらの懐かしさを感じることがある。あの独特の香りは、僕の記憶のどこか奥深くに眠っている過去を呼び覚ますような気がするのだ。
これは、僕が大学を卒業してすぐの頃、まだ新しい仕事に慣れずにいた時の話だ。ある日の夜、会社の飲み会の帰り道、ふと懐かしい路地に足を向けた。昔、よく友人たちと集まっていた場所だ。そこには小さなバーがあり、学生時代の僕たちはよくそこで時間を過ごしたものだった。
バーの扉を開けると、あの頃と変わらない雰囲気が漂っていた。薄暗い照明、カウンターに並んだボトル、そして何よりも、タバコの煙がゆっくりと空中に舞っていた。僕はカウンターの隅に座り、マスターにビールを注文した。
「久しぶりだね」と、マスターが微笑みかけてきた。僕は軽く会釈をして、ビールを受け取った。彼は僕のことを覚えているようだったが、僕は彼の顔をはっきりと覚えていなかった。それでも、どこか安心感を覚えたのは確かだった。
カウンターには他にも数人の客が座っていた。皆、タバコをくわえながら、静かにグラスを傾けている。僕はふと隣の席に座っていた男に目をやった。彼は年配の男性で、灰色のスーツを着ていた。顔には深い皺が刻まれ、どこか遠い目をしていた。
その男が、ゆっくりとタバコを吸う姿を見ていると、何かが引っかかった。僕は彼の顔に見覚えがある気がしたのだ。まるで、昔どこかで会ったことがあるような、そんな感覚。
「タバコ、お好きなんですか?」と思わず声をかけてしまった。
彼はゆっくりとこちらを見て、微笑んだ。「ああ、もうずっと吸っているよ。昔からね」と答えた。その声にもどこか聞き覚えがあった。僕はもう一度、彼の顔をじっくりと見つめた。
その時、ふと記憶が蘇った。彼は、僕の祖父と似ている。いや、似ているというよりも、まるでそのままだ。祖父は僕が高校生の時に亡くなったが、彼のタバコの吸い方や、微笑む時の表情は、確かに祖父のそれと同じだった。
「すみません、失礼ですが、以前どこかでお会いしましたか?」と尋ねたが、彼はただ微笑んで首を振った。「いや、君とは初めてだよ。ただ、タバコの香りは記憶を呼び覚ますからね」と言いながら、もう一度タバコを吸った。
その言葉を聞いて、僕は思い出した。祖父もタバコを吸っていた。あの香りが、祖父との記憶を呼び起こしたのかもしれない。だが、それだけでは説明がつかないほど、その男の存在は祖父そのものだった。
僕はその後も何度かそのバーに通ったが、その男に再び会うことはなかった。マスターに聞いても、そんな客は知らないという返事だった。あの日、僕が見たものは何だったのか。煙の向こうに見えた幻だったのか、それとも本当に祖父が僕に会いに来たのか。
答えは分からない。ただ、タバコの煙が漂うあのバーに行くたびに、僕は祖父のことを思い出し、どこか安心感を覚える。そして、タバコを吸わないと決めている僕が、なぜかあの香りを懐かしく感じる理由が、少しだけ分かった気がした。
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