あれは、まだ僕が若かった頃、地方の小さな旅館でのことでした。その旅館は、山の中にひっそりと佇んでいて、周囲には何もない静かな場所でした。仕事の出張で訪れた僕は、疲れ切っていて、早く休みたいと思っていました。
フロントで鍵を受け取り、部屋に入ると、何とも言えない寒気がしました。夏の終わりで涼しい夜でしたが、それにしても寒い。布団をかけても、その寒さは体の芯までしみ込んでくるようでした。仕方なく、エアコンをつけて温めながら、仕事の資料に目を通していました。
その時です。突然、電話が鳴りました。時計を見ると、もう深夜の1時を過ぎていました。こんな時間に誰だろう、と思いながらも、受話器を取りました。
「もしもし?」
何の応答もありません。ただ、遠くでざわざわとした音が聞こえるだけです。不審に思ってもう一度声をかけました。
「もしもし、どちら様ですか?」
すると、受話器の向こうからかすかに聞こえてきたのです。
「・・・たすけて・・・」
その声は、まるでか細い女性のような、途切れ途切れの声でした。僕は一瞬、息を呑みましたが、これは何かの間違いかと思い、「間違い電話でしょう」と言って受話器を置きました。
しかし、その後も電話は鳴り続けました。鳴るたびに受話器を取ると、同じように「たすけて・・・」という声が聞こえてくるのです。気味が悪くなった僕は、フロントに電話をかけましたが、誰も出ませんでした。
仕方なく、僕は部屋を出てフロントに向かいました。館内は静まり返っていて、廊下には誰もいません。フロントに着いてベルを鳴らしましたが、誰も出てきません。すると、フロントの奥の部屋から、かすかな話し声が聞こえてきました。
「たすけて・・・」
その声は、まさに電話で聞いたのと同じものでした。僕は恐る恐る声のする方へ向かいました。扉を開けると、そこには一人の中年の女性が立っていました。彼女は僕を見て、驚いたような顔をしました。
「何をしているんですか?」
僕が尋ねると、彼女は静かに答えました。
「この旅館で、昔一人の女性が亡くなったんです。電話で助けを求めていたそうですが、誰も気づかなくて…。それ以来、夜になると、彼女の声が聞こえることがあるんです」
その言葉を聞いた瞬間、僕は背筋が凍りつくのを感じました。そして、急いで部屋に戻り、荷物をまとめて旅館を後にしました。
あれから何年も経ちますが、あの夜の電話の音と、助けを求めるかすかな声は、今でも僕の耳に残っています。皆さんも、もし夜中に知らない番号から電話がかかってきたら、気をつけてくださいね。
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