立ち食い蕎麦屋

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その立ち食い蕎麦屋に行ったのは、終電を逃した帰り道だった。
都心の繁華街から少し外れた路地に、古びた提灯がぶら下がっているのが見えた。深夜にもかかわらず、店内にはぽつりぽつりと灯りがついている。腹が減っていたこともあり、ふらっと足を向けた。

入口をくぐると、店内にはカウンターだけが並び、客は誰もいなかった。奥で黙々と蕎麦を茹でているのは、無表情な中年の男だった。油でべたついた壁と、少し湿った空気。昭和のまま時間が止まったような店だった。

「いらっしゃい」
店主の声は抑揚がなく、必要最低限の言葉だけが転がってきた。私は温かい天ぷらそばを注文し、適当な位置に立った。

店内には、湯気の立つ音と、時折店主が蕎麦を茹でる音だけが響いている。妙に静かで、外の喧騒が嘘のようだった。注文した天ぷらそばが出され、私は箸を手に取った。

蕎麦は香ばしく、天ぷらも揚げたてで美味しかった。空腹だったこともあり、私は夢中で食べ進めた。だが、ふとした瞬間、背中に視線を感じた。

――誰かいるのか?

振り返るが、そこには誰もいない。店内は私と店主だけ。再び蕎麦をすすり始めたが、視線は消えない。まるで後ろに立っている誰かが、じっと私を見下ろしているような感覚だった。

気味が悪くなり、急いで食べ終わると会計を済ませた。店主に釣り銭を受け取りながら、「他に誰か来てました?」と尋ねてみたが、無言のまま首を横に振るだけだった。

外に出ると、路地はひっそりとしていた。だが、なんとなく振り返ると、店の中に何か影のようなものが見えた気がした。それは、カウンターに立つ人間のようだったが、動きがおかしい。肩がやけに突き出し、首が左右に揺れている。まるで首の座らない人形が立っているように見えた。

気のせいだと思い、その場を後にした。だが、それからしばらくの間、夜中になると妙な夢を見るようになった。

夢の中で、あの立ち食い蕎麦屋に立っているのだ。私の前には蕎麦が置かれ、湯気がたちのぼっている。しかし、どうしても食べられない。蕎麦の隙間から、何か黒いものが動いているのが見えるのだ。最初は虫かと思ったが、それは人の指のようなものだった。細長く、関節が妙に多いそれが、蕎麦の間から伸びてこちらを掴もうとする。

夢から覚めたあとも、指先に冷たい感触が残ることがあった。あの蕎麦屋は、もう二度と行かないと決めているが、それでも路地の入り口を通りかかるたび、提灯が揺れているのを見ると、また蕎麦の香りが漂ってくるような気がするのだ。

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