その話を聞いたのは、友人が結婚して郊外に家を買ったというので、遊びに行った時のことだ。
友人の家は新築で清潔感があり、周囲も静かな住宅街だった。夕食をご馳走になったあと、リビングでゆっくり話していた時、友人がふと妙な話を始めた。
「最近さ、隣の家が気になるんだよね」と友人は言った。
隣の家というのは、友人の家と塀を隔てたすぐ隣。築年数は古そうで、昼間でもほとんど人の気配がしない。庭は荒れ放題で雑草がぼうぼうだ。だが、それ自体は珍しいことではない。どこにでもある、ちょっと放置された家だと思った。
「気になるって、何が?」と聞くと、友人は少し言葉を選ぶように口を開いた。
「いや、最初はただの気のせいかなと思ったんだけどさ……夜になると、どうも隣の家から視線を感じるんだよね」
視線?それだけ聞くと、ただの想像や気のせいにも思える。けれど、友人の表情は冗談を言っているようには見えなかった。
「例えば、リビングでテレビを見てるときとか、二階の窓を開けてるときとか、ふとした瞬間に、隣の家の方から誰かに見られてる感じがするんだ。でも、昼間は全然そんな感じしないんだよ」
確かに奇妙な話だ。人の住んでいない家で視線を感じるなどというのは、普通ならあり得ない。
だが、そのあと友人が言ったことは、さらに不可解だった。
「この前、思い切って庭から隣の家を覗いてみたんだ。夜だったけど、窓に何か映ってる気がしてさ……」
「で、どうだった?」と促すと、友人は少しうつむき、低い声で答えた。
「……人みたいなのがいた。でも、あれは人間じゃない」
友人曰く、その時見たのは「人の形をしている何か」だったそうだ。顔があるように見えたが、目鼻立ちがぼんやりしている。手や足も曲がり方がおかしく、動きも妙にぎこちない。例えるなら、子供が粘土で作った人形が動いているような感じだったという。
「しかもさ、そいつ……俺を見て、笑ったんだよ」
思わず背筋が寒くなった。
「笑ったって……どういうこと?」
「顔全体が動くんじゃなくて、口だけがぐいっと上に上がった感じ。でも、声はしないんだ。ただ、俺をじっと見て、笑うだけ」
その後、友人は慌てて家の中に戻り、それ以来その家を見ないようにしているらしい。だが、それでも視線の感覚だけは消えないのだと言う。
「……俺、最近妙な夢を見るんだ」
友人は最後にそう言った。
「夢の中で、隣の家の中に入ってるんだよ。自分の意思じゃないのに、勝手に足が動いてさ。その人間もどきが、いつも隅っこに座ってるんだよな。で、『おいで』みたいに手を振るんだ」
それを聞いたとき、冗談抜きで友人の家から逃げ出したい気持ちになった。
あれから数週間後、友人から連絡が来た。
「引っ越すことにした」
そう短く書かれたメールには、詳細は一切なかった。
隣の家がどうなったのか、その後どうなったのか、私は知りようがない。けれど、友人の家を訪れた夜に感じた微かな視線を、今でも思い出すことがある。気のせいだと思いたいが、あれも「人間もどき」の仕業だったのだろうか。
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