仕事が終わって、取引先の人と酒を酌み交わし、夜遅くなってから宿に帰ろうとしました。その時、飲み屋の主人がこう言ったんです。
「帰り道、橋を渡るなら気をつけて」
酔いもあって、最初は冗談かと思いました。でも、妙に引っかかる言い方だったんですよ。酔い覚ましに、少し遠回りをしながら宿に戻ることにしました。
道中、川沿いに差し掛かると、小さな木橋が見えてきました。どこにでもあるような古びた橋。でも、妙に静かなんです。風も無ければ、川のせせらぎも聞こえない。私は足を止めました。なぜか、橋を渡るべきじゃないという気がして。
けれども、もう遅かった。
何かが橋の向こうに立っていたんです。
人影でした。
夜霧の中に浮かぶ、ぼんやりとした輪郭。顔は見えない。立ち尽くしたまま、こちらをじっと見ているような気配だけが伝わってきた。
私はその場を離れようとした。でも、足が凍りついたように動かない。
その時、橋の向こうから、低くしゃがれた声が聞こえたんです。
「渡ってみろ」
その声があまりに冷たくて、骨に響くような感じがしました。私の頭には、一つの考えが浮かびました。
――この橋は渡ってはいけない。
ようやく足が動いて、橋から離れようとした瞬間、
バキッと大きな音がして、橋の木板が何かに踏み抜かれたように割れた。
驚いて振り返ると、さっきまで立っていた人影はもういなかったんです。
でも、橋の上に、なぜか足跡だけが残っていた。濡れて黒ずんだ足跡が、橋の向こう側から、私の方へ向かって伸びていました――まるで、途中で消えたように。
その足跡は、まるで
「次は渡るだろう?」
そう言っているようでした。
……今でも、出張先で川沿いに橋があると、避けて通るようにしていますよ。
肝を冷やすなんてもんじゃない。命が凍りつくような思いをしましたからね。
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