引っ越し先のアパートで、俺は奇妙な手紙を見つけた。
ポストに投函されたその封筒は、差出人も住所もなく、表にはただ一言。
「一つへ」
何のことかさっぱりわからなかった。
悪戯かと思い、封筒を捨てようとしたが――
ふと、中から何かが動くような気がして、手を止めた。
封筒を開けると、中から古い紙片が一枚出てきた。
黄ばんだ紙には、やはり短い言葉が書かれている。
「一つへ向かえ」
それを読んだ瞬間、背筋に寒気が走った。
まるで、どこかに誘われているような気がしたからだ。
俺は妙な不安に駆られ、紙をすぐにゴミ箱に放り込んだ。
だが、その夜――何かがおかしいことに気づいた。
部屋の中で、音がする。
深夜2時、部屋の天井から、**トン、トン、トン……**と何かが叩く音が聞こえた。
まるで、誰かが階段を一段ずつ上がるような音だ。
「……上の部屋か?」
俺の部屋は二階。
けれど、このアパートは二階建てで、上には誰もいないはずだ。
音は止むことなく、一定のリズムで続いている。
それが何かの拍子に、ふっと耳元に近づいた気がして、俺は立ち上がった。
音が、階段の方から聞こえる。
ゆっくりと、一段ずつ上がってくる。
一つ、二つ、三つ……
足音が止まったのは、俺の部屋の前だった。
「……誰だ?」
扉の向こうに、誰かがいる。
覗き穴を覗いたが、暗がりの中には何も見えない。
扉越しに聞こえるのは――かすかな呼吸音だけだ。
嫌な気配を感じ、俺は扉の前から後ずさりした。
そのとき、不意に耳元で囁く声が聞こえた。
「一つへ」
振り返ると、部屋の中には誰もいない。
しかし、何かが確実にこの部屋の中に入り込んでいる。
次の日、俺は昨日のことを夢だったと思い込もうとした。
だが、ポストを見ると――同じ封筒がまた入っていた。
「……何だよ、これ」
手に取ると、中からまた紙が出てくる。
「一つへ進め」
紙を見た瞬間、頭の中に地図のようなイメージが浮かび上がった。
それは、このアパートの階段だ。
一段、二段、三段……
そして、「一つ」という文字が、階段の最後の段に浮かんでいる。
その瞬間、俺は理解した。
最後の段に向かえ――という意味なのだと。
恐怖に駆られながらも、俺は階段を下り始めた。
一段、二段、三段……
最後の一段に足を置いたとき、何かが後ろに立つ気配がした。
振り返れなかった。
ただ、背中越しに声が聞こえた。
「お前も、一つになれ」
その瞬間、足元が崩れるような感覚に襲われた。
気づくと、俺は階段の下で倒れていた。
ただ、奇妙なことに――俺の足元には、もう一人分の影が映っていた。
その影は、俺の動きに合わせて揺れるのではなく――
独立して、ゆっくりと動いていた。
それ以来、ポストに手紙が届くことはなくなった。
ただ、階段を下りるたびに感じる。
もう一つの影が、常に俺の背後にいることを。
そして時折、耳元で囁かれる声が聞こえるのだ。
「次は、お前が呼べ」
「一つへ――進ませろ」
あの手紙は、俺に次の人間を誘うよう求めているのかもしれない。
だが、俺はまだ誰も呼んでいない。
少なくとも、今のところは――。
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