町の名は忘れてしまった。
正確には、町の名前を誰も口にしなかったのだ。
初めてその町を訪れたのは、まだ私が二十代の頃だった。車で峠道を抜け、ふと気がつくと小さな集落が広がっていた。古い家々が肩を寄せ合うように建っていて、どの家も屋根は瓦で覆われ、軒先には季節外れの紫陽花が咲いていた。
不思議だったのは、その町が異様に静かだったことだ。
風が吹けば、木々の葉が揺れる音が聞こえる。けれど、人の声も車の音も、一切聞こえなかった。
誰もいないのかと思ったが、そうではない。
家々の窓にはカーテンが引かれていて、時折、窓の隙間から誰かがこちらを見ている気配がした。
私は車を停め、町を歩いてみることにした。
鳥の鳴き声すら聞こえない。
石畳の道を歩くと、足音だけがやけに響く。どこかで井戸の水を汲む音がした気がしたが、姿は見えなかった。
ふと、ある家の前で立ち止まった。
その家の門には、古びた木札がかかっていた。札には文字が刻まれていたが、掠れて読めない。
気味が悪くなって振り返ると、遠くの路地の角に人影が立っているのが見えた。
黒い着物を着た男のように見えたが、顔はよく見えなかった。けれど、その男が動いていないことだけはわかった。
私は足早にその場を離れた。
どこへ行っても、町は静かなままだった。
ただ、歩けば歩くほど、自分が同じ場所をぐるぐる回っているような感覚に襲われた。
一度、町の端に辿り着いたと思ったのだが、次に曲がった角を進むとまた最初の場所に戻ってしまった。
その瞬間、理解した。
この町は、私を外に出すつもりがない。
私は急いで車に戻った。
エンジンをかけ、元来た峠道へと引き返した。
バックミラーに映る町は、あのときも、異様に静かだった。
けれど一つ、妙なことがあった。
町を離れて峠を越えた瞬間、車のラジオから人の声が流れ始めたのだ。
それまで一切雑音すら入らなかったのに、突然クリアな声が聞こえた。
「――帰ってくるな。」
その言葉が、あの町の住人たちの声だったのか、それともただの気のせいだったのかは、今もわからない。
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