菜の花

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あれは春、桜が散り始め、菜の花が盛りを迎えた季節のことでした。私は地元の小さな川沿いを散歩していました。その川には長い土手が続いていて、一面に菜の花が咲き誇っていました。黄色い海のようで、とても美しい光景でした。

その日は特に天気が良く、風も穏やかで、人影は少なくて静かでした。私は土手に座り込み、ぼんやりと花を眺めていました。菜の花は風に揺れるたびに甘い香りを漂わせ、どこか夢見心地にさせられるような気がしていました。

ふと、遠くの方に一人の人影が見えました。白い服を着た細身の女性が、菜の花の中を歩いているようでした。彼女はまるで花の海に溶け込むようで、動きがどこかゆらゆらとしています。その不思議な光景に目を奪われていると、彼女が私の方に少しずつ近づいてきました。

距離が縮まるにつれて、違和感が強くなっていきました。彼女の歩き方が、少しおかしいのです。足を動かしているようには見えない。まるで、地面を滑るようにしてこちらに近づいてくる。

近づくにつれて、顔が見える距離になりました。しかし、顔がぼんやりとしたまま、はっきりと見えません。菜の花の黄色い光が反射しているのかと思いましたが、それにしてもおかしい。鼻も口も目もあるはずなのに、ただの「影」に見えるんです。

私は思わず立ち上がり、その場を離れようとしました。しかし、足がすくんで動けません。その間にも彼女は、まっすぐ私の方へと向かってきます。もう、すぐそこまで来ている。

彼女が私の前に立った瞬間、何かが私の胸を締め付けました。息が苦しくなり、視界が揺れるような感覚。そして、耳元で何かが囁く声がしました。それは風の音にも似ていましたが、言葉のようでもありました。

「ここに、来ないで」

それだけ言うと、彼女はくるりと向きを変え、菜の花の中へと消えていきました。再び歩き始めるわけでもなく、ただ、ふっと溶け込むように見えなくなったんです。

しばらくその場に立ち尽くした後、やっと体が動くようになりました。私は全力でその場を離れ、家に帰りました。

後から地元の人に聞いた話では、あの川沿いには、昔、何か大きな事故があったのだとか。それが菜の花とどう関係しているのかは分かりませんが、それ以来、私は菜の花畑を見るたびに胸がざわつくのです。

あれは、ただの幻覚だったのでしょうか。それとも、本当に「何か」がいたのでしょうか。今となっては確かめる術もありません。ただ、あの甘い菜の花の香りを嗅ぐたび、私はあの春の日を思い出してしまうのです。

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