あれは、まだ私が学生だった頃の話です。夜の帰り道、終電間際の電車を降りた私は、駅から家へと続く寂しい住宅街の道を歩いていました。人通りはほとんどなく、家々の窓もほとんど灯りが消えています。季節は冬、風が冷たくて、息が白く曇るのが見えました。
その夜はいつもよりも妙に静かで、時折、かすかな音が耳に入るたびに振り返っていました。風に揺れる木々の音や、遠くの踏切の警報機の音が、どこか異様に響いていました。
そんな時でした。背後から声をかけられたんです。
「すみません」
若い女性の声でした。その声は、どこか頼りなげで、寒さに震えているようにも聞こえました。振り返ると、道の脇に女性が立っていました。コートを羽織り、マフラーで顔を半分覆っていますが、顔色は青白く、目だけが異様に光っているように感じました。
「どうか、少しだけ付き合ってもらえませんか」
そう言う彼女の声は低く抑えられていて、かすかに震えていました。最初は何か困っているのだろうと思い、声をかけ返そうとしましたが、口が開きませんでした。なぜか、体が硬直したように動かなくなったんです。
そして、気づきました。彼女の後ろに、もう一人、影のようなものが立っていたんです。形は人のようでしたが、輪郭がぼやけていて、服の色も、顔も、何も分からない。ただ、「そこにいる」という気配だけがはっきりと伝わってきました。
私は足を動かそうとしましたが、体が拒否していました。それどころか、頭の中で何かが囁くんです。
「行くな」
その囁きが、自分の意志なのか、それとも何か外から聞こえたものなのか、今でも分かりません。ただ、その瞬間、恐怖が全身を駆け巡り、私は無言のままその場を後にしました。振り返ることもせず、ただ、必死で家に向かって歩きました。
家に帰り着いた頃には、全身汗だくで、息が上がっていました。それでも振り返ることはできませんでした。部屋に入ると鍵を二重にかけ、カーテンを閉め、布団に潜り込みました。
あの夜、あの女性が本当に助けを必要としていたのか、あるいは違う何かだったのか、未だに分かりません。ただ、どうしても考えずにはいられないのです。
もし、あの時、私がついていっていたら、どうなっていたのだろうか、と。
友人にその話をした時、「行かなくて正解だった」と言われました。けれど、今でも夜道を歩く時、時折、あの声が背後から聞こえるような気がするのです。「すみません」と。あの時と同じ、かすかで震えた声が。
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