あれは正月、昼間でもやけに薄暗い曇り空の日でした。親戚の家で退屈しのぎに庭をぶらぶらしていたときのことです。その庭の端には、古い井戸があったんです。誰かに埋められたのか、板で蓋がされていて、もう何十年も使われていないようでした。
親戚の誰一人としてその井戸に近づこうとはせず、「呪われた井戸」なんて言って子どもたちも避けている。私も、特に興味があったわけじゃありません。ただ、あの日はなぜか、その井戸が気になって仕方なかったんです。
蓋の板は割れていて、穴から井戸の中が少しだけ覗けました。中は真っ暗で底が見えない。長い間使われていなかった井戸にしては、何かが濡れたような音がしました。カポン、カポンと、水の跳ねるような音です。風のせいかと思って耳を澄ませたのですが、音は規則的で、風ではないと気づきました。
私は気になって、少し体を乗り出しました。そして懐中電灯で照らしてみたんです。最初は何も見えなかった。光が吸い込まれるように深い闇が続いていました。
でも、数秒経つと何かが見えました。底ではありません。水の表面に何かが浮かんでいる。それが、私の目には最初、ただの影に見えたんです。でも、だんだんとそれが形を持ち始めました。
それは、人の顔だったんです。
水面に浮かぶ顔。正確に言えば、顔がこちらを見上げている。その顔は、目や鼻の部分がぼんやりしているのに、口だけがはっきりと分かりました。口元には笑みが浮かんでいたんです。ただ、それが冷たい、こちらを嘲笑うような笑みだったことを今でも覚えています。
ぞっとして後ずさりました。でも足が滑ってしまい、片手を蓋に突っ込む形で支えたんです。そのときです。井戸の中から、何かが私の手首を掴んだんです。冷たくて湿った感触が、今でも忘れられません。人の手だったと思います。強く引っ張られた感覚がありました。
慌てて力任せに引き抜きましたが、その瞬間、井戸の中から声が聞こえたんです。何を言っていたかは分かりません。ただ、不気味に響く声でした。井戸の中から湧き出るような、かすれた音。それが耳にこびりついて、頭が割れそうでした。
気づいたら、庭の真ん中で尻餅をついていました。井戸はそのまま、暗く冷たい佇まいを保ったまま。家の人たちが慌てて駆け寄ってきましたが、私は「転んだだけだ」と誤魔化しました。
それ以来、その井戸のことは誰にも話したことがありません。ですが、あのとき掴まれた手首には、今でも奇妙な跡が残っています。黒ずんだ手形のような、それとも傷跡のようなものが。
あの井戸には、何かがいます。そう確信しています。ただ、それが何かを突き止める勇気は、私にはもうありません。
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