春先のことだったと思います。風はまだ冷たかったけれど、日差しが強く、冬の間に鈍った体をほぐすような陽気でした。私達は大学生で、友人たち数人と連れ立って海に行きました。季節外れの海は閑散としていて、砂浜も波打ち際も、私達以外に人影はほとんどありませんでした。
「これ、気持ち悪くない?」
先に砂浜を歩いていた友人のひとりが、足元を指さしました。そこには、何かの生き物の死骸が転がっていました。魚ともウミガメともつかない形で、体の半分が砂に埋もれています。異様なのは、異様に大きな口でした。口だけが不自然に開いていて、中が黒く深く見える。
「なんだこれ……」
誰かがつぶやき、私達は立ち止まってその死骸を囲みました。触るのは躊躇われましたが、誰もその場を離れようとはしません。ある種の好奇心と不気味さに引き寄せられていたんだと思います。
そのときです。波の音に混じって、砂浜のどこかから何かが「ぐるっ……ぐるっ……」と音を立てました。私達は顔を見合わせ、音のする方を見やりました。海へ向かう波の動きに合わせるように、砂の下で何かが蠢いているようでした。
「やめようぜ、これ」
一番臆病な友人がそう言い、誰も異論を挟みませんでした。けれど、その場を離れようとした瞬間――突然、あの死骸の口から砂が吹き上がったんです。砂煙が私達を包み込み、一瞬何も見えなくなりました。
「おい、みんな大丈夫か?」
咳き込みながら周囲を見回したとき、友人のひとりがいないことに気付きました。名前を呼びながら砂浜を探しましたが、どこにも見当たりません。まるで砂ごと、波に飲み込まれて消えたようでした。
あの死骸は、もうどこにもありませんでした。ただ、砂の上には奇妙な跡だけが残っていました。まるで大きな口で地面を引き裂いたかのような――そんな形の跡です。
結局、その友人は見つかりませんでした。警察や地元の人に話しても、彼がそこにいたという痕跡すら発見できなかったんです。あのとき砂浜で私達が見たものは、何だったのでしょうか。死骸の口の中に続いていた黒い深みは、どこに繋がっていたのでしょうか。
今でも思い出すたびに、体の奥が冷たくなるのを感じます。春先のあの陽気が、嘘のように思えます。
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