乳母捨て山の陰

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それは数年前の秋のことでした。仕事の出張で地方を訪れた際、空いた時間を使って少し山を散策することになりました。その山はかつて「姥捨て山」と呼ばれていた場所で、地元の人々の間では「古い言い伝え」が今でも語り継がれていました。

山道を登りながら、紅葉の美しさに心を奪われていました。ひんやりとした風が吹き抜け、静けさの中に鳥のさえずりが響いていました。山頂近くの小さな平地にたどり着くと、そこにはぽつんと古びた祠が建っていました。地元の人が手を合わせに来るのか、祠の前には新しい花が供えられていました。

なんとなくその場に立ち尽くしていると、祠の裏手に伸びる細い獣道のような道が目に入りました。何かに引き寄せられるようにその道に足を踏み入れ、奥へと進んでいきました。

道の先にはぽっかりと開けた場所がありました。そこには苔むした大きな石が並び、どれも人の形をしているように見えました。岩ではなく、まるで誰かがそのまま石になったような……そんな不気味な形状でした。

その時、風がぴたりと止み、周囲が異様なほど静まり返りました。そして、背後に気配を感じたのです。振り返ると、そこには一人の老婆が立っていました。

老婆は古びた和服を着ていて、ぼさぼさの白髪が風もないのに揺れていました。顔は皺だらけで、その瞳だけが異様に光を放っていました。驚いた私は、何も言えずその場に立ち尽くしていました。

「ここに来るのは……久しぶりじゃ。」

老婆はそう言いました。その声は低く掠れていて、まるで地の底から響いてくるようでした。

私は言葉が出せず、ただ頷くだけでした。老婆はじっと私を見つめながら、ゆっくりと近づいてきました。その足取りは異様に静かで、枯れ葉を踏む音さえしません。

「帰り道を知りたければ、振り返らずに進むことじゃ。」

老婆はそう言い残し、私の横を通り過ぎて石の並ぶ広場の方へ消えていきました。振り返りたくない――そう本能的に感じ、私は言われた通りその場を後にしました。

山道を下りきった時、全身が冷え切っていることに気付きました。あの老婆は何だったのか、そしてあの石たちが何を意味していたのか……。誰にも確かめることはできませんでしたが、山を出た後、地元の人にそれとなく尋ねた時、「あの祠の先には行かない方がいい」と言われたのです。

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