あの場所に行ったのは、少し疲れが溜まっていた時期でした。友人と一緒に「気分転換に」と湯治場に泊まりがけで出かけたんです。その湯治場は山あいの小さな温泉地で、昔ながらの趣を残した木造の旅館がいくつか並んでいました。お湯は少しぬるめで、長く浸かるのにちょうど良い温度でしたね。
初日は特に変わったこともなく、静かで心地よい時間を過ごしました。ただ、夜になると旅館の空気が少し重く感じられるようになりました。建物自体が古いからだろうと軽く考えていましたが、どこか不安を誘うような感覚がありました。
その夜、友人と一緒に遅い時間に温泉に入ろうとしました。貸切状態の露天風呂で、満点の星空を見上げながらのんびりしていると、背後で「チャポン」という水音がしました。誰かが来たのかと思って振り返りましたが、そこには誰もいませんでした。
「風のせいかな」と話していたのですが、それからしばらくして、湯船の端の方で波紋が静かに広がっていくのが見えました。何かが湯に触れたようにしか見えない波紋。友人もそれに気づき、「おかしいな」と首をかしげていました。
そして、湯の表面に映る私たちの姿の隣に、もう一つ影のようなものが揺れているのに気づきました。ぼんやりしていて人の形をしているようにも見えましたが、確かではありません。ただ、その影がゆっくりと湯の中に沈み込むように消えたとき、全身が凍りつくような寒気を覚えました。
慌てて風呂から上がり、部屋に戻りましたが、その夜はどこか落ち着かず、窓の外に目を向けるたびに山影の暗闇が妙に気になりました。翌朝、旅館の女将さんにそれとなく聞いてみましたが、「このあたりの温泉は昔からいろいろな話がありますよ」と笑うだけで、特に詳しい話は聞けませんでした。
湯治場自体はとても良い場所でしたが、あの影が何だったのかは、今でも分かりません。疲れが癒されるはずの温泉で、なぜかあの日だけは、湯船の温かさが心まで届かなかったような気がします。友人と話すときも、あの夜のことだけは、あまり深く触れないままにしています。
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