歩夢は普段から落ち着いていて、あまり冗談を言うようなタイプではありませんでした。それだけに、その日の彼の話は、私たちにとって妙に生々しく、そして信じざるを得ないものでした。
夕暮れ時、歩夢は家の用事で田んぼの畦道を歩いていたそうです。夏特有の湿った空気と、カエルの鳴き声があたり一面を包んでいたと言います。畦道を歩きながら、ふと足を止めたのは、田んぼの中央に何かが立っているのに気づいたからでした。
最初は案山子だと思ったそうです。田んぼに案山子が立っているのは珍しいことではありません。でも、その案山子は少し奇妙でした。稲穂の間から見えるシルエットは、普通の案山子よりも大きく、首が異様に細長かったそうです。そして、頭部には何か黒い布のようなものが巻かれていて、風もないのにゆらゆらと揺れていたとか。
歩夢は、その案山子を見つめながら、何かがおかしいと感じたそうです。それは、案山子が少しずつ動いているように見えたからです。いや、動いているというよりも、こちらに近づいているような……。
「まさか」と思い、目を凝らして見たその瞬間、案山子の顔――いや、顔のようなものがこちらを向いたと言います。それは、人間の顔ではありませんでした。白い皮のようなものが張り付いていて、目も口もぼんやりとした黒い穴が開いているだけ。歩夢はその顔から目を離せなくなり、体が動かなくなったと言います。
そしてその時、案山子が田んぼの中で何かをしゃべるような音を立て始めたそうです。それは人の言葉ではなく、風が草をかき分けるような低い音で、でも確かに「何か」を伝えようとしているように聞こえました。歩夢はその場から逃げ出したくても、足が地面に縫い付けられたように動かない。気が遠くなりそうな恐怖に耐えながら、ようやく足を一歩踏み出した時、田んぼから突然何かが跳ね上がったと言います。
それは黒い影のようなものだったそうです。稲穂をかき分けて一瞬空中に浮かび、そのまま田んぼの反対側に消えていきました。その瞬間、歩夢の体は自由になり、彼は一目散にその場から逃げ出したそうです。
話を聞いた私たちは、もちろん半信半疑でした。でも、歩夢の表情はそれまで見たことがないほど青ざめていて、冗談でこんな話をするような様子ではありませんでした。
それ以来、田んぼの近くでは妙な噂が広まりました。夜遅くに田んぼの中を覗き込むと、そこに案山子が立っているという話。しかも、その案山子は毎晩少しずつ位置を変えているのだとか。そして、次に見た者は「戻れなくなる」という噂。
歩夢はそれから田んぼの近くには二度と行きませんでした。そして私たちも、あの話を聞いてからは、夕暮れ時の田んぼに近づくのを避けるようになりました。
コメント