その日、私は祖父の家を訪ねていた。山あいの小さな集落にあるその家には、祖父が丹精込めて育てた庭があり、そこには一本の古い柿の木が立っていた。もう幹はごつごつとしていて、木肌は苔むしている。それでも毎年秋になるとたわわに実をつけ、地元の子どもたちや近所の人々が楽しみにしている木だった。
「今年もよく実ったな」
祖父はそう言いながら、私に熟した柿を一つ取ってくれた。まだ冷たい朝の空気の中で、その柿の甘さは格別だった。
庭先の縁側でしばらく柿を味わい、ふと木の根元を眺めた。何気ない光景のはずなのに、その日ばかりは何かが違うような気がした。どことなく、柿の木の影が濃すぎるのだ。まるで木そのものが光を吸い込んでいるような、そんな違和感だった。
昼過ぎ、祖父が出かけた後、私は柿の木の下に行ってみた。影の濃さが気になったのもあったし、祖父がいつもこの木をどれだけ大切にしているのかを思うと、なんとなく惹かれるものがあったのだ。
木の幹にそっと手を触れると、妙に温かい感触があった。日差しのせいだろうか。そう思いながら、目を閉じると、突然、耳元で「おかえりなさい」と女性の声が聞こえた。
驚いて振り返るが、そこには誰もいない。ただ風が吹き抜け、枝が揺れる音がするだけだ。私は気のせいだと思い直し、木の下に腰を下ろした。しかし、どうもその場から立ち去りがたいような、不思議な居心地の良さを感じた。
しばらくすると、再び声が聞こえた。今度はもう少しはっきりとした声だ。
「もう帰ってきていいんだよ」
心臓が跳ね上がる。振り返ってもやはり誰もいない。ただ、柿の木の影がまるで揺れるように見えた。その影の中に、薄ぼんやりと人の姿のようなものが見えた気がした。それは、祖父の家の古いアルバムで見たことがある顔――祖母だった。
祖母は私が生まれる前に亡くなっている。もちろん会ったことはないが、その姿は家の中の写真で見慣れていた。
「ここは、あなたの帰る場所だよ」
声は優しく、どこか懐かしい響きを持っていた。それは自分の記憶にあるはずのない懐かしさだった。
気がつくと日が傾き始め、庭の風景が橙色に染まっていた。影もいつものように長く伸びている。さっきの濃すぎる影も、もうどこにもなかった。
その日の夕食の後、私は祖父にこの話をした。祖父は静かに笑って、「柿の木はおばあちゃんが好きだった木だからな」とぽつりと呟いた。
それ以降、あの柿の木を見るたびに、誰かが見守ってくれているような気がする。もう帰らぬ人の温もりが、木の影に宿っているような、そんな不思議な感覚だ。
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