私は歯医者が苦手だ。痛みや音が嫌というより、ただ何となく気分が悪くなるのだ。だが、放置していた虫歯が耐えきれなくなり、近所の小さな歯科医院に行くことにした。
その医院は古く、子どもの頃に通っていた記憶がある。狭い待合室、飾り気のない受付、独特な薬品の匂い――何も変わっていなかった。予約もせず飛び込んだが、患者は他にいなかったらしく、すぐに診察室へ案内された。
診察台に座ると、年配の歯科医が現れた。顔立ちは記憶の中の先生と一致するが、妙に無表情で、声にも抑揚がない。「口を開けて」と淡々と言い、私は緊張しながら口を開いた。
診察が始まると、器具のカリカリとした音が響く。医師は特に声をかけることもなく、淡々と作業を進めていた。その様子にどこか違和感を覚えたが、痛みがひどく、それどころではなかった。
「虫歯ですね。神経を抜く処置が必要です」
その言葉に小さく頷き、治療が始まった。麻酔が効き始める頃、私は妙な感覚を覚えた。口の中を触られている感覚が薄れると同時に、何かが耳元で囁くような気がした。
「……もっと、口を開けて」
私は驚いて口を閉じようとしたが、医師の冷静な声に止められた。
「まだ終わりませんよ。口を大きく開けてください」
囁きはその後も続いたが、音の出どころがわからない。診察台の周囲を見渡すが、天井の白い蛍光灯がぼんやりと光っているだけだった。
治療が終わり、受付で会計を済ませようとしたとき、不意に聞き覚えのある声が背後から聞こえた。
「また来てくださいね」
振り返ると、そこには若い助手が立っていた。しかし、次の瞬間、彼女の顔が思い出せないことに気づいた。どんな顔立ちだったのか、どんな表情をしていたのか、まるでぼんやりとした霧に覆われたように何も浮かばない。
その夜、自宅で鏡を見て、私は異変に気づいた。口を開けたとき、喉の奥に「何か」が見えるのだ。影のような黒いものが一瞬揺れ、消えた。
翌日、再びその歯医者を訪れたが、驚いたことに、その場所には医院はなかった。廃墟となった建物だけが残っており、中は空っぽだった。
それ以来、私は鏡を見るのが怖い。口を開けるたびに、自分ではない「誰か」の視線を感じるのだ。
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