中学生の頃、僕が住んでいた町はどこか薄暗くて静かだった。小さな商店街と、古びた駅が中心にある町で、線路を挟んで住宅地と田んぼが広がっている。電車の本数も少なくて、踏切の音だけが生活のリズムを刻んでいた。
その踏切には、町で有名な奇妙な噂があった。
「踏切の手」というものだ。深夜になると、踏切の遮断機が突然下り、電車も来ていないのに線路の向こう側に何かが見えるという。その「何か」は最初ぼんやりとしているが、近づいてくるとそれが手だけの形をしているのが分かるらしい。
手は人間の手ほどの大きさだが、妙に細長く、白い。それが遮断機を越えて、じわじわとこちらに伸びてくるんだと。逃げ遅れると、その手に引きずり込まれるらしい。
友だちの間で、その噂はちょっとした肝試しの定番だった。僕も「そんなのありえない」とバカにしていたけど、内心は少し怖かった。
ある日、部活で遅くなり、帰りが夜の9時を回った。街灯も少なく、人通りもほとんどない。線路を渡るために例の踏切に差し掛かったとき、遮断機がガタンと降りた。
「こんな時間に電車なんて通るっけ?」と思いながら立ち止まると、向こう側が妙にぼんやりしている。霧のようなものが線路の向こうに広がっていて、何かが動いている気配がした。
「まさか…」
一瞬、噂話が頭をよぎったけれど、そんなことあるわけがないと自分に言い聞かせた。ところが、その「何か」は次第に形を持ち始め、はっきりと見えるようになってきた。
それは手だった。噂通り、細長くて白い手が地面を這うように近づいてくる。
僕は怖くてその場を動けなくなった。手は遮断機の下まで来ると、スルリと抜けてこちら側に出てきた。そして、地面を這いながら、僕の足元を目指して伸びてくる。
動けない。
全身が凍りついたように硬直して、声も出せなかった。ただその手が近づいてくるのを見つめることしかできなかった。
「触られる…!」
その瞬間、遮断機がガタンと上がった。耳をつんざくような警笛が鳴り響き、手はスッと霧の中に消えていった。電車なんて結局来なかった。
家に帰ると、玄関で母が不安そうな顔をして待っていた。「踏切で何してたの?5分以上、動かなかったんだって?」
「え?」僕は聞き返した。「5分どころか、遮断機が降りてからすぐに帰ってきたよ。」
母は首を振った。「近所のおじさんが、ずっと動かないお前を見てたって。しかも、何かを拾おうとしてたように見えたって言うのよ。」
記憶にない。けれど、確かにその日以来、右手の小指に違和感がある。なぜか少し冷たく、少しだけ感覚が鈍いままだ。
あの夜、何が本当に起きていたのか。思い出すたびに、右手の小指がじんわり冷たくなる。
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