あれは私が都内のバス会社で運転手をしていた頃の話だ。夜間の最終便を担当することが多く、毎晩決まったルートを走っていた。深夜になると乗客も少なく、たいていは閑散とした車内で時間を持て余していた。
ある雨の夜、いつものようにバスを運転していると、終点の2つ手前の停留所で一人の女性が乗り込んできた。傘を持っていないのか、全身が雨に濡れていた。
運転席から見えるミラー越しに、彼女は後部座席に座った。顔はよく見えなかったが、長い髪を垂らしてうつむいている。こんな夜に外出なんて珍しいなと思ったが、特に気にせずバスを進めた。
次の停留所で他の乗客が乗り込んで来た。その乗客は前の方の座席に座ったが、なんだか妙にソワソワしている。時折振り返って後部座席を気にしているようだった。
終点に到着した時、全員が降りたのを確認しようと後ろを振り返った。けれども、最後に降りたはずの女性がまだ座席にいた。静かにうつむいたままで、動く気配がない。
「終点です。お客様?」
声をかけても反応がない。近づこうとしたその時、彼女の体がすっと消えるように薄くなり、次の瞬間には誰もいなくなっていた。
その晩、帰庫してから同僚にその話をしたが、「ああ、その人か」と意外な答えが返ってきた。同僚たちは口を揃えて言う。
「たまに出るんだよ、その女の人。雨の夜にだけな」
聞けば、数年前にその路線でバスに轢かれた女性がいたという。その事故が原因で、最終便のバスには時々「透明な乗客」が現れるらしい。
それから数週間後、また雨の夜に彼女が現れた。同じ停留所から乗り込み、同じ後部座席に座った。今度は彼女が降りる瞬間を確かめようと、終点に着くまで意識を集中させていた。
しかし、終点に着くとまたもや彼女は姿を消していた。座席には小さな水たまりだけが残っていた。
その日から、最終便を運転するたびに、後ろから彼女の視線を感じる気がする。ミラーを覗いても誰もいない。それでも、雨の日の終点では必ず、あの座席に雨水の跡が残っている。
今でも、雨の夜にバスを運転する時、背後の気配に怯えながらハンドルを握っている。彼女が次に現れるのは、いつなのか分からない。
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