夏祭りの夜、私は久しぶりに地元の町に戻ってきた。都会での忙しい日々から解放され、故郷の風景が懐かしく感じられた。祭りの会場は神社の境内で、提灯の明かりが揺れ、人々の笑い声が響いていた。
私は友人たちと再会し、久しぶりの夏祭りを楽しんでいた。屋台で焼きそばを買い、射的や金魚すくいをして子供の頃に戻ったような気分だった。祭りの賑わいの中で、私は一人の浴衣姿の女性に目を引かれた。
彼女は青い浴衣を着ていて、長い黒髪を風になびかせながら歩いていた。どこか儚げな雰囲気があり、目が離せなかった。彼女は私に気づくと、微笑みを浮かべて近づいてきた。
「夏祭りは楽しいですね」
彼女は柔らかな声で話しかけてきた。私は少し驚いたが、すぐに微笑み返した。
「はい、久しぶりの祭りですごく楽しんでいます」
彼女はうなずきながら、私の隣に立った。その時、ふと彼女が手に持っていた小さな袋から苔が見えた。私は不思議に思いながら尋ねた。
「それ、苔ですか?」
彼女は微笑んで袋を見せた。
「ええ、ここにはたくさんの苔が生えているんです。とてもきれいでしょう?」
袋の中には、青々とした苔が敷き詰められていた。彼女はその苔を愛おしそうに撫でながら、私に一つのお願いをした。
「少し、散歩しませんか?苔の美しい道があるんです」
私は彼女の誘いを受け、彼女と一緒に神社の境内を離れた。人々の賑わいから離れると、静かな森の中に入っていった。そこには苔が一面に広がる細い道が続いていた。月明かりが苔に反射して、幻想的な雰囲気が漂っていた。
「すごくきれいですね…」
私はそう言いながら歩いていた。彼女は私の隣で静かに笑っていた。
「昔からこの道は変わらないんです。苔がいつもこんなふうに道を覆っているんですよ」
彼女の言葉に、私はどこか懐かしさを感じた。子供の頃、ここで遊んだ記憶が蘇ってきた。森の中を走り回り、苔の上で転んで笑いあった記憶が。
「この道、昔からあるんですね」
私が言うと、彼女はうなずいた。
「ええ、でも今では誰も来なくなりました。この苔の道を知っている人も少ないでしょう」
その時、私はふと違和感を覚えた。彼女の姿が薄れていくように見えたのだ。浴衣の色がぼんやりと消え、苔の緑が彼女を包み込んでいるように見えた。
「どうしたんですか?」
彼女が私に問いかけた。私は首を振り、気のせいだと思い込もうとした。
「いえ、何でもないです…」
彼女は再び微笑んで、私の手を取った。その瞬間、彼女の手が冷たく、苔のように湿っているのを感じた。私は驚いて手を引っ込めたが、彼女は何事もなかったかのように先に進んだ。
「この道を行くと、素敵な場所がありますよ」
彼女がそう言うので、私は仕方なくついて行った。道は次第に狭くなり、苔がますます濃くなっていった。足元が滑りやすくなり、私は何度も転びそうになった。
「もうすぐです…」
彼女の声が遠くから聞こえた。私は彼女を見失いかけ、苔の道の中を探した。しかし、彼女の姿は見えなかった。辺りは暗く、静まり返っていた。
「どこですか…?」
私は震える声で呼びかけたが、返事はなかった。苔の香りが強くなり、私は息苦しさを感じ始めた。視界がぼやけ、足元がふらついた。
「ここにいるよ…」
彼女の声が耳元で囁いた。私は振り返ったが、誰もいなかった。ただ、苔が私の足元に絡みつき、まるで何かが引っ張っているかのように感じた。
「助けて…!」
私は叫び声を上げたが、その瞬間、視界が真っ暗になった。
目が覚めると、私は神社の境内にいた。祭りの提灯の明かりが眩しく、周りには人々が行き交っていた。私は驚いて立ち上がり、苔の道の方向を見た。
そこにはただの暗い森が広がっているだけだった。あの道も、彼女も、どこにも見当たらなかった。私は混乱しながらも、元いた場所に戻った。
友人たちは心配そうに私を見つめていた。
「どこに行ってたんだ?急にいなくなるから心配したよ」
私は何も言えず、ただ頷いた。あの苔の道で何があったのか、彼女が誰だったのか、私には分からなかった。
ただ、あの夜に見た苔と浴衣の女の姿が、今も目に焼き付いている。まるで夢だったかのような、しかし現実だったかもしれないあの出来事が、私の心に深く残っている。
苔の道は再び誰にも知られることなく、ひっそりと森の中に存在し続けるだろう。そして、あの女もまた、誰かを待ち続けているのかもしれない。
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