万歳

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小さな町に引っ越してきたのは、ちょうど梅雨が終わり、夏が始まる頃だった。都会の喧騒から離れ、静かな生活を求めていた私は、この町の穏やかな雰囲気が気に入っていた。町には古い商店街があり、歩いているとどこか懐かしい気持ちになった。

ある日、私は町を散歩していた。商店街を抜けると、小さな公園があった。子供たちが遊んでいる姿を見ながら、公園のベンチに腰を下ろした。ふと視線を感じて、公園の端を見ると、一人の子供がマンホールの蓋の上に立っていた。

その子供は背の低い男の子で、手を上げて「万歳」をするような姿勢をしていた。私はその光景を不思議に思いながらも、特に気に留めずにいた。男の子はそのまましばらくの間、万歳の姿勢を保っていたが、突然、何かを思い出したかのように手を下ろし、マンホールの蓋を開け始めた。

「危ない!」

私は思わず声をかけたが、男の子は私の声に気づかない様子で、マンホールの中を覗き込んでいた。私は急いで立ち上がり、彼の方に駆け寄った。マンホールの蓋はすでに半分開いており、男の子はその中に顔を突っ込んで何かを見ていた。

「何をしているの?」

私は彼に尋ねたが、男の子は振り返ることなく、ただマンホールの中を見つめ続けていた。私は彼の肩に手を置き、もう一度尋ねた。

「大丈夫?中に何かあるの?」

その時、男の子はゆっくりと顔を上げ、私を見つめた。その目は空虚で、まるで何も感じていないかのようだった。彼は口を開けて、低い声で言った。

「中に…手があるんだ」

その言葉に、私はぞっとした。恐る恐るマンホールの中を覗き込むと、暗闇の中から何かが見えた。それは確かに手だった。細く、白い手が、暗闇の中から伸びてきている。手はゆっくりと動き、何かを掴もうとしているようだった。

「こんなところに誰が…?」

私は混乱しながらも、手を引っ込めようとした。しかし、その瞬間、手が急に私の腕を掴んだ。冷たく、湿った感触が私の腕に伝わり、私は恐怖で叫び声を上げた。

「助けて!」

私は必死に腕を引っ張ったが、手は驚くほどの力で私を引き込もうとしていた。男の子はただ無表情で私を見つめていた。私は何とか腕を振りほどき、後ずさりして倒れこんだ。

その間に、男の子は再びマンホールの蓋を閉じ、静かに立ち上がった。彼は私を一瞥し、何も言わずに公園を去っていった。私はその場に座り込んだまま、動けなくなっていた。腕にはまだ、あの手の冷たい感触が残っていた。

その後、私はマンホールの中を再び覗き込む勇気はなかった。あの日の出来事を誰かに話そうとしたが、信じてもらえないだろうという気持ちが先立ち、結局誰にも言えなかった。ただ、あの男の子がなぜマンホールの中を見ていたのか、そしてなぜ「万歳」の姿勢をしていたのか、答えは見つからないままだった。

町を去る前に、私はもう一度公園を訪れた。マンホールの蓋はしっかりと閉じられていて、何事もなかったかのように見えた。しかし、私の心の中には、あの時見た手の記憶が今も残っている。あの手が何を求めていたのか、そしてなぜ私を掴んだのか、答えを知ることはないだろう。

ただ、あの日の「万歳」という言葉が、何かの暗示であったのではないかという思いが、今でも私の中でくすぶっている。あの手は、何かを成し遂げるために、再び現れるのではないかという不安が、心の片隅に残り続けているのだ。

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