刺していただけますか?

スポンサーリンク

ある夜、私は仕事の後にいつもの居酒屋に立ち寄った。小さなカウンターだけの店で、店主と客が親しく話をすることができる居心地のいい場所だった。私は一人でカウンターに座り、店主が出してくれたビールを飲みながら、静かな夜のひとときを楽しんでいた。

その日は特に客も少なく、店内は静まり返っていた。店主と少し話をしていると、ドアが開いて一人の男性が入ってきた。彼は40代くらいで、スーツを着ていたが、どこか疲れたような表情をしていた。

「いらっしゃいませ」

店主が声をかけると、男性は無言でカウンターの隅に座り、じっと前を見つめていた。彼の雰囲気が少し不気味で、私は自然と視線をそらした。

「何かお飲みになりますか?」

店主が尋ねると、男性は低い声で答えた。

「ビールをください」

店主がビールを出すと、男性はそれを一口飲み、深いため息をついた。私は気まずい沈黙が流れるのを感じ、何とか話題を振ろうとしたが、彼の様子を見て思いとどまった。

しばらくして、男性が突然、私の方に顔を向けた。

「あなた…刺していただけますか?」

その言葉に、私は驚いてビールをこぼしそうになった。彼は真剣な表情で私を見つめていた。私は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

「何を…?」

私が聞き返すと、彼は再び「刺していただけますか?」と繰り返した。彼の目は真剣で、まるで何かを確かめようとしているようだった。

店主も驚いた様子で、カウンター越しに彼を見つめていた。店内は静まり返り、誰も何も言えなかった。

「なぜ…そんなことを…?」

私は恐る恐る尋ねた。男性は深いため息をつき、うつむいた。

「ただ…終わりにしたいんです。もう疲れました。でも、自分ではできないんです。誰かに…お願いしたいんです」

彼の言葉に、私は背筋が凍るような感覚を覚えた。店主も何も言えずに、ただその場に立ち尽くしていた。男性の顔には深い疲れと絶望が刻まれていた。

「すみません、そんなことはできません」

私がそう答えると、男性は悲しげな笑みを浮かべた。

「そうですよね…普通はそうですよね。でも…もし気が変わったら、ここに連絡してください」

彼は名刺を一枚取り出し、カウンターに置いた。それから静かに席を立ち、店を出て行った。

残された私は、彼の言葉が頭から離れなかった。名刺を手に取り、名前を見ても、知らない人物の名前だった。連絡先の番号が書かれていたが、私はそれを見つめながら何も言えなかった。

店主もその後、何も言わなかった。私たちは無言でグラスを傾け、店内の静けさが一層重く感じられた。

その夜、家に帰った後も、彼の言葉が耳に残っていた。「刺していただけますか?」という言葉が、まるで頭の中でこだまするように響いていた。

翌日、ニュースで彼の名前が報道された。彼は自ら命を絶ったということだった。名刺に書かれていた名前と一致していた。

あの夜、彼がなぜ私にあんなことを頼んだのか、今でも分からない。彼の深い絶望が、私に伝わってきたのかもしれない。ただ一つ言えるのは、あの言葉が今でも私を苦しめ続けているということだ。

「刺していただけますか?」

その問いかけが、今でも心の中で繰り返される。彼の悲しみが、私に乗り移ったかのように、あの夜の出来事が忘れられない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました